月兎の檻

                  

「………様。おいとまに参りました」
「………もう一度仲間を見捨てることは…………」
「………次の満月の夜に…………」

                  ※

「……………あなたを月には返さない」
 ――――――――――。
 ――――――――――。
「………ならば地上から、…………せば良い。
 …………地上から見える満月は、月と地上を行き来する唯一の鍵なのだ………。
 ………を壊せば……、地上は、大きな密室になる」

                  ※

「なんて事!
 そう、夜を止めていたのは………、貴方達だったのね!」

                  ※

     大ひなるバビロンは倒れたり、倒れたり、
     且つ悪魔の住家、諸々の穢れたる霊の檻、
     諸々の穢れたる憎むべき鳥の檻となれり
            ヨハネ黙示録 第18章第2節


                  ※

 射命丸文は今日もふらふらと取材を続けていた。そう、面白可笑しいネタではなく、「真実」を探して。記事にする価値ある情報を求めて。

「この春の花の異変については、何故か知らないけど妖怪やら巫女やらは何も言わないし、つまんないわね。そもそも私自身記事しようという気が起きないし。
 ………そうだ、むしろ永夜異変の真相を聞き出すなら今だわ。この騒ぎのどさくさに紛れて特ダネを手に入れよっと。鍵は間違いなく永遠亭ね」

 巫女ほどの勘は無いけれど、ネタを嗅ぎ出す嗅覚には自信がある。
 間もなく文は竹林を過ぎ、永遠亭を目の前にしていた。この場所は、暫く前までは誰も近づかない場所だったが、最近ではもう馴染みの場所だった。

「う〜ん、永遠亭までやって来たはいいけれど、あそこの連中は得体が知れないのよねえ。
 兎はこの前酷い目にあわせちゃったしなあ……、困ったわね、どうしようかしら」

 庭先をうろうろしながら中の様子を窺っていると、突然背後から声を掛けられた。

「こっそりうちを窺っているのは誰かしら」
「いや、その、…………しまった、ネタを求めてたら、うっかり人様の庭の中でした」
「ああ、アレな新聞記者ね。またうっかりかしら?」

 そこには外で用事を終えてきたらしく、何かの包みを抱えた鈴仙・優曇華院・イナバが立っていた。
 文は素早く考えを巡らす。彼女からなら、何かを聞き出せるかも知れない。彼女なら危険もなさそうだ、と。

「(やっぱりこの兎が一番話しやすいわ。狂気を操るというけれど、永遠亭のあの面々の中では一番弱くて一番常識的そうだし)良かったら、一寸話を聞きたいなーって」
「ふーん、あなたも他人を見た目で判断するのね、新聞記者のくせに。大切なことは目に見えないって箴言を知らないのかしら」
「(ドキッ)えーと、永夜異変の真相を知りたいの」
「真相ねえ?
 じゃあ、誰もが納得する虚偽の説明と、誰もが信じない真実、あなたならどちらを撰ぶ?」
「迷うことなんてありません。勿論真実です」
「誰も信じないのは、信じたくないからかもしれないのにねえ。
 この世界には知らない方が良い真実や、知っていても敢えて表白すべきでない真実の方が多いわ。所詮此の世は嘘ばかり」
「だからこうやって真実を」
「本当は嘘だと解っていても、嘘だと云わなければそれは真実、弱き者達はそうして己を騙って生きている。嘘を暴くのは容易いけれど、失われるものは多いよ」

 文はふと不安に襲われる。其処にいるのは何者なのか。自分は誰と話しているのか。もう見慣れたはずの月の兎の姿は其処には無く、ただあるのは得体の知れないモノ………。平穏な日常の風景が僅かに歪み、狂気が忍び寄る。

「………あなた、誰です?」
「兎は古来賢しくもかだましきモノ、騙り透かして瞞すのがその性よ。稲羽白兎からかちかち山まで……。兎は罠には二度とは掛からぬ、とね」
「あなたまで、……てゐさんじゃあるまいし、そんな事言わないで下さいよ。
 あなたは狂気の月の兎、鈴仙・優曇華院・イナバさんでしょ」
「あぁ、あの月人の付けた名前ね。名前なんてどうでも良いじゃない」
「そんなこと無いです。名前は最も短い呪、“意味するもの”名前を戴くその重要性を知らないのは人間ぐらいじゃないのですか?」
「そうかしら?忌名やら何やら拘っているのはむしろ人間よ。
 まあねえ、レイセンは醴泉、聖なる水よ。生を育み天地を結ぶもの、ほら宇佐大神も水神ね、神紋は巴だもの」
「それは知ってます」
「ふふふ、じゃああなたは、これから言うことも知ってるのかしら?
 吾は水と大地に拠りて人に禍と福とを齎(もたら)すモノ。
 嘗て諸人に齋(いつ)かれし産土(うぶすな)の霊」
「!」
「兎は吾が眷属にして御使(みさきがみ)、
 吾こそ白兎大明神として影向(ようごう)せし奇霊(くしみたま)なり!
 時には瑪瑙の精たる宝玉媛、時には塩土の翁、そして出雲に坐す八上姫は吾が権現!」
「………そんな!
 あなたが兎じゃないの?じゃあ、その耳は何?」
「狐や猿が稲荷や山王そのもので無いように、兎の神は兎そのものではないわ。あなたにはこんなに解り易い留め具が目に入らないのかしら。これは耳が本体とは異質なものであるということを示す、私の真摯さの表明じゃないの」
「ええっ?
 そうなんですか?」
「あなた、新聞記者ならば、ワーグナー位知っていて欲しいわ」
「音楽家ですか?」
「建築家よ!
 とにかく名前なんて記号に過ぎないわ。
 大体私が、単なる一匹の月の兎なら、あのてゐが私の下に付く訳無いじゃないの」
「でもでも、あなたは月の兎だからこそ狂気を操るのでは?」
「月の兎の眼には通常の何倍もの狂気が宿る……か、確かにね、月は狂気の源。
 でもね、私みたいな此の地の異神、柴神、藪神、つまり路傍の小さき神々は、荒御崎姫の昔から狂気を操るのはお手の物。
 あなたこそ本当に天狗?
 ……狂気も又我が神威なり!」
「口調がコワいんですが……。
 では、永夜異変の原因として囁かれている、月での地上人との諍いとか、月の御使いがどうのという話は何なんですか?
 月に関する情報源はあなただ、というのが専らの噂なのですよ」
「もちろん嘘。
 だって、月の異変の情報源は私だけなのよ。月の戦争も仲間の兎からの通信も私が云ったこと、唯それだけ。何の根拠もないわ。
 実際どうだった?月から何か訪れた?
 使者なんて訪れるわけがない。月兎の電波なんてお笑いだわ。
 本当に何も無かったの。
 ……まあ、実際に外の世界に訪れたとしても、幻想郷へは来られないけどね」
「そんなものなんですか?
 私にはあなたならともかく、あの二人が欺されるとはとても思えないのですが」
「あれはね、月からの使者を恐れながら、一方でそれを待ってもいたの。使者の来訪は本当はあの二人が望んだことなのよ。
 自らは絶対認めたくない事でしょうけどね。
 月にまで地上人が至って、何か争いが起きるということも、きっと自分で薄々感じていたことなのね。
 私はそれをちょっと後押ししただけ」
「………何の為にそんなことを?」
「私は毀してやりたかった。あの檻を、竹林の奥に堅固に造られた妄執の檻をね」
「……………」
「あれは見事に引っ掛かったわ。
 挙句二重の密室を造り上げた。……檻は心の中にあるのに。
 その中を見るのが怖くて怖くて、あれは囲いを造ったの。
 そしてどうなったと思う?
 結局密室は力を持った人妖を呼び寄せ、檻は破れたわ。 ……思った通りにね。
 少し誘導はしたけれども……、あの人妖の力は予想以上だったわ」

 文は思う、何か違うと。この兎はまだ何かを隠している。だが文の中のもう一人の文が警告する。それ以上は聞くな、と。でもでも。
 文は遂に遠回しに疑問を口にする。

「あの自称人間の二人は、今では幻想郷の中で、周りとも結構上手くやっているようですが」
「さあねえ」
「あなたの目的は、そもそも二人を……」
「嘘は嘘、妄語は罪。優れた嘘は誰も気が付かず、誰も不幸にしない。それでも嘘は嘘。
 だからその咎は、嘘吐き本人だけが抱えて行くの。
 この世界にはそんな嘘が満ち満ちているわ」
「あなたは何故そんな話を私にしたのですか?
 私は新聞記者ですよ?」
「あなたも私と同じくらい嘘吐きだからよ」
「ええっ。………て、どういう事です?」
「でもね、きっとあなたは新聞が何たるかを知っている。真偽を問わず情報の影響力もね」
「……」
「じゃあね」
「ちょ、ちょっと待って下さいよー」
「………籠鳥檻猿倶に未だ死せず。
 人闡褐ゥゆること、是れ何れの年ならん、と。
 此の夕べ、我が心、君之を知るや……………」

 月の兎の後ろ姿は永遠亭の建物の中に消えた。僅かに中の声が漏れ聞こえてくる。

「あっ。師匠〜。もっ、申し訳ありませ〜ん。
 あの烏がー、仕事の邪魔さえしなければー。だってー。
 えっ、薬は遠慮しますー」
「………」

                  ※

 文は鈴仙の話を記事にすることを止めた。
 文は考える、この世界にはそっとしておいた方が良い真実もあるのだと。
 今の文にはそれを理解することが出来た。
 そして文は願う、自分が嘘を共有することで、ほんの僅かでも咎が軽くなることを。


     月兎の檻(了)



参考文献
・小松和彦ほか『日本民俗文化大系4 神と仏』小学館1983
・石上七鞘『十二支の民俗伝承』おうふう2003
・瀬川拓男、松谷みよ子『日本の民話1 動物の世界』1975
・吉野裕子『十二支』人文書院1994
・柳田國男「石神問答」、「山島民譚集」『柳田國男全集』筑摩書房1997
・南方熊楠『十二支考』講談社
・国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館1979
・『白氏文集』(『新釈漢文大系』明治書院)
・『新旧約聖書』日本聖書協会1930
・『神道大辭典』平凡社1937
・『漢字源』学習研究社
・『字源』角川書店
  ほか、民俗学、歴史学等の諸文献、辞書


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