建築探偵 永夜逍遙(壱)


 さて、建築探偵の第一回目には永夜抄6A(姫を隠す夜空の珠)の背景に登場する建築物について見てゆきたいと思います。
 永琳師匠の2枚目のスペルカード(N:覚神「神代の記憶」)を破ると背景が変わり、建物が見えるようになります(図1)。ここから3枚目のスペルカード(N:蘇活「生命遊戯−ライフゲーム−」)が発動するまでの間の通常攻撃時に見えています(蘇活ブレイク後にも一瞬見えます)。
 この建築はいったい何なのかが今回のテーマです。           


永夜抄6A面
図1 東方永夜抄6A面


平安神宮拝殿
図2−1 平安神宮拝殿(大極殿)


平安神宮拝殿(別角度)
図2−1 平安神宮拝殿(大極殿)(別角度)
 まず、一見して解ることは、木造の平屋瓦葺きの建物らしいということです。各部分の大きさから、建物の規模はかなり大きく、また、二箇所以上の階段の付いた基壇が設けてあります。建物の正面は少なくとも11間(けん:柱間が11個あるということ)あり、さらに、両脇に廊下状の建造物が連なっているように見えます。
 さらに細かく見てゆくと、細部の意匠から以下のようなことが解ります。
 第一に屋根の最上部、棟の両端に置かれているのは、鯱や鬼瓦ではなく、鴟尾(しび)と呼ばれる部材であると考えられます(図4)。次ぎに横架材の形式や柱間装置(間斗束:けんとづか)から和様の伝統工法を取っていると思われます(図5)。第三は彩色についてです。壁面は柱などの木造架構部分以外は白壁のようです。木部は丹で塗られていると思われます。
 なお、画面右側には別棟と思われる建物の軒と基壇が見えています。
 建物以外の特徴としては、建物の前面が砂利敷きらしいことと、樹木らしき影が建物の手前側にあることでしょうか。


 それではこれらの特徴に当てはまる建物は何かを考えてみたいと思います。
 そもそも、鴟尾が載る建物はそんなに多くありません。奈良時代から平安時代の建物(或いはそれに範を取った建物)の可能性が考えられます。規模が異なりますが、雰囲気としては唐招提寺金堂に近い印象を受けます。それに加え、和様、丹塗り、複数の階段のある基壇付きという様式的特徴と、平屋、11間以上という規模とを考え合わせると、おぼろげながらも結論が見えてきます。        
 様式的には奈良平安時代までの和様で、この規模の建物、それはおそらく京都岡崎に鎮座する平安神宮の拝殿(大極殿)ではないでしょうか(図2)。

 平安神宮の拝殿は、和様で丹塗り、屋根には鴟尾を戴く平屋の建物です。平面規模、建物や基壇の様式、屋根形状などは酷似していると言って良いでしょう。また、両側に回廊が取り付く点、前庭の形式なども一致します。そして、この右斜めから見ると、両側の建物の軒と基壇が視野に入ってくる点も同様です。丁度良い写真が手元に無かったので、背景と近い角度の写真を示すことにします。他にも、例えば『伊東忠太建築作品』(城南書院、1941)掲載の写真には同じ角度からのものがあります。
 背景画像では細かいところが不鮮明なので、いくつかの疑問点は残りますが、この建築は、平安神宮の拝殿と考えてまず間違いないと思われます。

  背景画像の建物の推測が終わりましたので、以下ではその平安神宮とはどのような建築物なのか、について少し述べようかと思います。
  併せて、最後にこれまでに述べた、建築関連の用語などについて簡単にまとめておきました。


   平安神宮の基本情報
      所在地:京都府京都市左京区岡崎西天王町
      竣工年:明治28年(1895)
      設計者:木子清敬+伊東忠太
      施工者:清水組(現清水建設)
       (京都市指定文化財)


平安神宮
図3 平安神宮拝殿・白虎楼・蒼龍楼
 明治26年、京都市の平安奠都千百年記念祭事業として、紀念殿という形で建設が始まりました。
 ところが、当初紀念殿は平安京の大極殿を模造する計画であったのですが、途中から桓武天皇を祭神とする神社設立へと変更されました。結局大極殿は神社の拝殿という形式を取ることとなりました。設計者は木子清敬(きよよし)と伊東忠太(当時大学院生)です。費用その他の要因のために度重なる設計変更を余儀なくされたといいます。なお、神社への計画変更や祭神に関しては、天皇を頂点とした近代的な国民国家を目指した明治政府の思惑なども絡んでくるわけですが、それは又違う分野の物語です。
 平安神宮の拝殿と神門は、平安京の大極殿と応天門とを5/8に縮小復元したものです。各建物は、古図面などを参考に古来の手法や形式によって建設されています。後(昭和15年)に孝明天皇を祭神に加えました。十月の時代祭で有名です。
 背後の庭園は、そもそも防災緑地の意味合いを持って大正5年までに順次整備されたものですが、名人と謳われた植治こと小川治兵衛の手によるもので、素晴らしいものです。

 さて、大極殿(だいごくでん)とは如何なる建物かというと、かつての都の宮城内に造られた正殿であり、数々の儀式がこの建築を中心に行われました。平安京の大極殿は大規模な建物として知られましたが、12世紀までに三度の火災に遭い、治承元年(1177)の火災の後再興されませんでした。今の京都の千本丸太町の十字路北寄りが其の故地とされています。
 建物については、次のように伝えられています。大極殿は基壇上に建ち、母屋九間四面庇付(正面11間)、木部丹塗り、入母屋瓦葺き、棟には鴟尾一対を上げる。基壇の全面三箇所に階段を設けるというものです。


鴟尾
図4 鴟尾
鴟尾(しび):棟(屋根の最上部)を飾るための部材。鵄尾、或いは沓形とも。形状の起源は各説有り不明。日本へは飛鳥時代の建築様式とともに伝来したと考えられる。唐招提寺金堂(奈良時代)に残る。古い時代のものは残されていないが、法隆寺金堂、東大寺大仏殿にも当初から鴟尾が上げられていたものと考えられる。鎌倉時代以降は使用されなくなり、室町以降は替わりに鯱(しゃち/しゃちほこ)が現れる。
和様の組物
図5 和様の組物(唐招提寺金堂)
和様の組物:軒を支えるために、柱の上に様々な部材を組んで乗せる。柱を貫通する貫(ぬき)は用いず、両側から挟み付ける長押(なげし)を使用する。柱と柱の間の部材(中備:なかぞなえ)には間斗束(けんとづか)を用いる(蟇股という部材の場合もある)。左図の中央部、組み合わされた部材の間の垂直な材が間斗束である。
唐招提寺金堂
図6 唐招提寺金堂(和様)
和様の建築例:唐招提寺金堂。奈良時代の建築。鴟尾を上げる。組物は和様。平安神宮の拝殿(大極殿)設計の際に参考にされた。
東大寺大仏殿
図7 東大寺大仏殿(大仏様)
東大寺大仏殿(参考図版):江戸時代の再建。様式的には鎌倉時代の手法を引き継ぐ。和様ではない、大仏様(だいぶつよう)/天竺様(てんじくよう)と呼ばれる様式を持つ。貫(ぬき)を多用する手法や、組み物の置き方が異なる。柱の間が間斗束(けんとづか)ではなく組物になっている点に注意。鴟尾(しび)は唐招提寺金堂のものを参考に模造したもの。


追記
 ここまで書いてきて何ですが、上記の内容ははっきり言って
 写真や記憶との比較ですので(実物は遠い)、あまり信用できません。
 また、東方ユーザーにはもう常識なのかも知れません。
 もし、御指摘や御意見等が御座いましたら、掲示板かメールにて遠慮無くお寄せ下さい。

 あと、手書きの細い線は綺麗に取り込めないことが解りました。今後は工夫したいと思っています。



造家寮へ

表紙へ戻る