建築探偵 永夜逍遙(貳)


 さて、建築探偵の第二回目も永夜抄6A(姫を隠す夜空の珠)の背景に登場する建築物について見てゆきたいと思います。
 永琳師匠の3枚目のスペルカード(N:蘇活「生命遊戯−ライフゲーム−」)後の通常攻撃の際、平安神宮の建物の次に背景として現れる建物です(図1)。ここから4枚目のスペルカード(N:操神「オモイカネディバイス」)が発動するまでの間、そして操神ブレイク後、アポロの背景に変わるまでの間に見えています。
 この建築はいったい何なのかが今回のテーマです。           


永夜抄6A面
図1 東方永夜抄6A面



圓山ホテル(正面)
図2 圓山ホテル(台北)
 まず、一見して解ることは、かなりの高層建築であるということです。建物各部を構成する個々の意匠は木造建築風ですが、その規模の大きさから、鉄骨あるいは鉄筋コンクリートといった新しい構造材料による比較的新しい建物だということが予想されます。
 建物の柱間を見てみましょう。正面(右側)の中央部に広い部分があり、その両側は8間(けん:柱間が8個あるということ)で、しかも隅角に当たる柱間は狭いのが分かります。全体での階数や規模は分かりませんが、少なくとも9階建て以上で、屋根は二重になっています。
 さらに細かく見てゆくと、屋根がかなり反っており、和風ではなく大陸風の意匠であると言えましょう。そして柱は朱色系統、梁(はり:水平の材)は白系統の配色であることが予想されます。
 建物以外の特徴としては、周囲に樹木あること、建物の敷地が岡のように周囲より高くなっていると思われることなどでしょうか。

 それではこれらの特徴に当てはまる建物は何かを考えてみたいと思います。
 実際の所、大陸風意匠ということに注目してしまえば、上記のような細々とした特徴から探す必要は無いものなのかもしれません。最終的な同定の際に証拠にはなりますが。
 この特異な意匠を持つ、大規模な建物、それはおそらく台湾の台北市に建つ圓山ホテル(圓山大飯店・Grand Hotel)でしょう(図2,図3)。

 圓山ホテルは、台湾の台北市のややはずれ、小高い圓山公園内にある高級ホテルです。所謂「中国伝統式」の意匠を持つ14階建ての建物です。一種の観光地でもあり、結構有名だと思います。丁度良い写真が手に入れられ無かったので、背景と同じ角度の写真を示すことは出来ませんが、屋根や柱・梁の形状が同じであることが分かると思います。
 背景画像では細かいところが不鮮明なので、いくつかの疑問点は残りますが、こんな建築が他にあるとは思えません。



圓山ホテル(部分)
図3 圓山ホテル(隅部分・屋根)
 背景画像の建物の推測が終わりましたので、以下では圓山ホテルについて少し述べようかと思います。
 圓山ホテルは1952年に現地に創立されました。その後、1973年10月10日に現在の大陸風の大きな建物が完成、オープンを迎えています。14階建てのホテル建築で、レストランなども併設されています。豪華な大陸風の装飾の施されたロビーが有名です。
 何でも二十万体以上の龍の像があるため、龍宮と呼ばれているとか。
 この他、ホテルの裏山には、かつて旧植民地時代に日本が作った毒蛇研究所があり、その後も蛇が多く見られたとか、離れた公園にまで続く地下道があるとか、ちょっと変わった部分も持っているようです。割と簡単に泊まれるようなので、台北に旅行することがあったら、利用してみるのも一興かも知れません。

 実は、このホテルの建つ土地は我が国と因縁があるのです。かつて日本が台湾を植民地支配していた頃、此の地には台湾神宮(はじめ台湾神社)が鎮座していました。今では風光明媚なこの場所は、日本支配の象徴でもあったのです。
 現圓山ホテルのレストラン金龍廳のある場所が神社のあった場所に当たると言います。また、そこに今でもある龍の彫像は神社のものと言われています。

 台湾神社についても簡単に説明しておきましょう。日本は明治7年(西暦1874年)の台湾出兵以降かの地に勢力を伸ばしていましたが、日清戦争後の明治28年(1895年)、下関条約により台湾は割譲され、植民地化されました。 
 この植民地台湾の総鎮守として創建されたのが台湾神社でした。計画は随分前からあったようですが、創立は明治33年(西暦1900年9月13日)とされます。そして、台北の剣潭山に神社が完成し、大祭式を行ったのは明治34年(西暦1901年10月28日)でした。社格は官幣大社、祭神は北白川宮能久(よしひさ)親王、大國魂命(おおくにたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)でした。昭和19年(西暦1944年)に天照大神を祭神に加え、台湾神宮と改称しました。
 北白川宮能久親王(1847−1895)は元々輪王寺宮と呼ばれ、幕末に奥羽列藩同盟に担がれた人物でもあります。後に陸軍軍人となり、割譲された台湾の平定に向かい、明治28年10月28日に台南で戦病死しました。
 親王は台湾平定の英雄とされ、台湾神社と台南神社とが創建されました(第二次大戦後に共に廃社)。かの人物は、一時は朝敵として奥州に赴き、また陸軍軍人としてドイツへ留学、最期は台湾で従軍中に薨去するという、幕末明治という激動の時代に翻弄された人物でした。死後も台湾支配の象徴として利用された訳で、なんだか悲しい思いになります。歴史とはそんなものですが。

紫禁城鼓楼
図4 景山公園からの眺望
 台湾神社の写真を出しても余り意味がないので、大陸風建築の代表的なものとして、清王朝のものですが、北京の王宮の写真を示しておきます(図4)。これは景山公園から北側(故宮博物院の反対側)を撮影したものです。写っているのは鼓楼です(内宮側を撮った写真は各建物が小さかったので)。
 二重の屋根の形状や柱の様子などに、圓山ホテルとの共通点を見出すことができると思います。


追記
 大して書く内容を見つけられませんでした。内容が薄くて申し訳ない。
 多分、東方ユーザーには常識なんでしょうね。
 なかなか良い写真が無くて困りました。それから、紅魔のスコアの背景とか、蓮の池とか、他にも台湾関係
がありそうな気がするのですが、海外はちょっとね。
 もし、御指摘や御意見等が御座いましたら、掲示板かメールにて遠慮無くお寄せ下さい。



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