土蜘蛛 黒谷ヤマメ

土蜘蛛

 土蜘蛛       遠き神世
  地上を逐はれし
  流浪の国津神也
  時至りなば
  眷属の蜘蛛群がり来たり
  日ノ本六十余州へ巣を張りて
  疾く魔界へ
  なさんとすといへり
 暗い洞窟の明るい綱こと、黒谷ヤマメさんです。
 
 旧都の洞窟に封じられた妖怪。会う者すべてに嫌がられるのに、地下では人気者?
 明るく楽しいけど好戦的って、ちょっと困ったちゃんな感じもします。

 ヤマメさんは土蜘蛛で、病気(主に感染症)を操る程度の能力を持つ訳ですが、これは『平家物語』の「剣の巻」にあるエピソードから採られたものでしょう。また、黒谷という名乗りはおそらく、上記「剣の巻」とは別系統の鎌倉後期の『土蜘蛛草子』に拠るものでしょう。この物語中で土蜘蛛が登場する化け物屋敷があった場所は京都神楽岡(現左京区吉田神楽岡町あたり)とされているのですが、そのすぐ南隣が黒谷町なのです。通称“くろだにさん”の金戒光明寺がある辺りですね。ヤマメはZUNさんの言っておられるように八つの目からの連想でしょうか。「病」や「山」などに結びつければ色々な解釈も可能ではありますが(また、実際のクモに関わるスペルカードもあることから、ブラックウィドウ=ゴケグモ類の連想もあるのかもしれませんね)。
 さて、元ネタの妖怪土蜘蛛は源頼光に退治された妖怪として有名です。謡曲や歌舞伎の題材にも取り入れられています。鳥山石燕も土蜘蛛の詞書には「
源頼光土蜘蛛を退治給ひし事、児女のしる所也」とのみ記されています。
 ところで、クモの怪異と言えば、土蜘蛛に限らず人を襲う巨大なクモの物語や、怨霊がクモの形を取って現れた話など多様なものが伝えられています。また、“夜クモは親に似ていても殺せ”と言った類の俗信も日本各地で報告されています。されに、これを水辺の怪異(賢淵・蜘蛛淵)の伝説にまで拡げると、水の神とこれに仕えた巫女の問題にも繋がってゆきます。これら蜘蛛に関する伝承や物語、俗信は興味深いのですが、ここではとても書き尽くせませんので、稿を改めて書こうかと思っています。

 一方、土蜘蛛には、当時の王権に従わなかった在地勢力としての側面があります。もっともこちらが原型と言えるのですが。中央の軍事力に屈した被征服者、差別された敗者としての影が色濃く感じられる存在です。『風土記』や『日本書紀』にはこうした数多の“土蜘蛛”たちの記録が残されています。手足の長い様子を名前としたという“八束脛(やつかはぎ)”、塞(さえ)きを語源とするともいう“佐伯”としても知られる土蜘蛛たちは、次第にその独自性を奪われ、あるいは深山へと追われていったのです。
 記録を見ると、土蜘蛛の指導者の多くが女性であることが分かります。豊後の五馬媛、肥前の大山田女・狭山田女、海松橿媛、筑後の田油津媛、陸奥の神衣媛等々。これはおそらく、祭祀を司る巫女的な性格を持った共同体の女性が中心となり、男性(兄弟音あるいは配偶者)がそれを助けるという日本古代の支配体制を反映しているのでしょう。『魏志倭人伝』にある、卑弥呼と弟との関係を想起させます。
 こうした旧き土着思想を受け継いだ土蜘蛛たちは、確たる理由もない弾圧と差別の果てに王権に敗れて表舞台から姿を消し、その瞋恚と哀しみ、そして怨念の記憶は時を経て妖怪土蜘蛛として人々の意識の表面へと現れることとなります。

 さて、久々の絵です。なんだか書き方を忘れてしまいました……。ともあれ、不思議な衣装ですよね。まさか中に脚が何本も隠されている訳ではないでしょうけど。
 詞書きは、歌舞伎の土蜘蛛から採りました。歌舞伎は謡曲を元にしているのですが、少し台詞の内容が違うのですね。何れにせよ、ここに登場する土蜘蛛は王権に対する恨みを表白し、古代より幽かに、しかし綿々と受け継がれた滅ぼされた者たちの記憶が甦るのです。

 願わくば、恨みも哀しみも乗り越え、新たなる仲間として地上の幻想郷に受け入れられんことを。


参考文献
  高田衛監修『鳥山石燕 画図百鬼夜行』国書刊行会1992
  馬場あき子『鬼の研究』ちくま文庫1988
  山本二郎ほか監修『家の芸集』(『名作歌舞伎全集18』)東京創元新社1986
  野上豊一郎編『解註 謡曲全集』中央公論社1951
  村上健司『日本妖怪大事典』角川書店2005
  岩井宏實『暮らしの中の妖怪たち』河出文庫1990
  笹間良彦『日本未確認生物事典』1994柏美術出版
  国史大辞典編纂委員会『国史大辞典』吉川弘文館1987
 ほか


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