歴史喰い

  さて、折角だからもう少し詳しく解説しよう。
  まずは『太平記』について概略を述べておこう。『太平記』は南北朝の動乱を描いた軍記
物だ。作者については小島法師など何人かの名前が挙がっているが判然としない。そもそ
も単一の作家によるものではない可能性もある。歴応元年(1338)から観応元年(1350)頃
に書かれたとされるが、おそらく作品全体としての成立は永和年間(1375〜1379)だろう。
全四十巻、通常は三部に分けられる。第一部は十一巻までで軍記物として良くまとまってい
ると言えよう。後半の二部三部には、作者による様々な社会に対する批評が多く記されるが、
作品としての統一性にやや欠けるというのが一般的な評価だ。
  「一念五百生、繋念無量劫」は、地方の幕府方の武士の一家の悲劇を描写した一節に
出てくる。少し長いが、『太平記』第十一巻の原文を引用してみよう。
 ちなみに「広有射怪鳥事」の記事は次の第十二巻に載っているぞ。


 越前ノ牛原地頭自害事(『太平記』 第十一巻)中の末尾部分
  五(いつつ)ト六(むっつ)トニ成ケル少(おさな)キ人ヲ鎧唐櫃ニ入(いれ)テ
  乳母(めのと)二人ニ前後ヲ舁(かか)セ、鎌倉河
(※1)ノ淵ニ沈メヨトテ、遙
  カニ見送リテ立チタレバ、母儀ノ女房
(※2)モ同(おなじく)其淵ニ身ヲ沈メン
  ト、唐櫃ノ緒ニ取付テ歩行(あゆみゆく)、心ノ中(うち)コソ悲シケレ。
  唐櫃ヲ岸ノ上ニ舁居(かきすえ)テ、蓋ヲ開(あけ)タレバ、二人ノ少キ人顔ヲ
  差挙テ、
  「是ハナウ母御(ははご)何(いづ)クヘ行給フゾ、母御ノ歩(かち)ニテ歩(あ
   ゆ)マセ給フガ御痛敷(おんいたましく)候。是ニ乗ラセ給ヘ」
  ト何心モナゲニ戯(たわむれ)ケレバ、母上流ルゝ泪ヲ押ヘテ
  「此河ハ是極楽浄土ノ八功徳池トテ少キ者ノ生レテ遊ビ戯ルゝ所也、我ノ如
   ク念仏申シテ此ノ中ヘ被沈(しずまれ)ヨ」
  ト教ヘケレバ、二人ノ少キ人々母ト共ニ手ヲ合セ、念仏高ラカニ唱ヘテ西ニ向
  テ坐シタルヲ、二人ノ乳母一人ヅゝ掻抱(かきだい)テ、碧潭(へきだん)ノ底
  ヘ飛入ケレバ、母上モ続テ身ヲ投テ、同ジ淵ニゾ被沈(しずまれ)ケル。
  其後時治
(※3)モ自害シテ一堆(いったい)ノ灰ト成ニケリ。隔生即忘(きゃく
  しょうそくぼう)
(※4)トハ申シナガラ又一念五百生、繋念無量劫ナレバ奈利
  (ないり)八万
(※5)ノ底デモ、同ジ思(おもい)ノ炎ト成テ焦(こがれ)給フラ
  ント。哀(あわれ)也ケル事共也。

  引用者註
   ※1:越前(現福井県)の地名
   ※2:少年達の母親である女房
   ※3:淡河時治、少年達の父親
   ※4:生まれ変わって新たな生を始めるときには、前世の記憶を忘れてしまうこと
   ※5:奈利とは梵語で地獄のこと。泥梨とも書く。また無間地獄の広さは八万由旬とされる

 ここで復習だが、一念五百生も繋念無量劫も同じような意味で、ほんの少しの妄想を浮か
べただけで、量り知れない年月、即ち幾度と無く死に変わり生まれ変わってもその報いを受
けるということである。
 この妄想とは欲や怨念ばかりではない、恩や愛情さえも執着をもたらす妄念なのだ。
 人にとっては厳しくも哀しい言葉だな。
 仏教では、基本的にはあらゆる執着を絶つことが涅槃への条件であるから、家族や他人へ
の思いや愛も本来は断ち切らねばならぬ。四句偈にはこうある
 「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」
だがこれを実践するのは難しかろう。どんなに理屈ではわかっていようとも、な。
 例えば上の太平記での挿話に描かれる執着は、むしろ家族の愛である。子供に会いたい、
妻に、夫に会いたいと願う心をどうして責められよう。ならば執着こそ人の心であり、人である
限り、この業からは逃れられぬのではないか。
 さればこそ、この業を見つめ、その上で悟りを求め続ける、その過程の中にこそ本当の悟り
があるのではないだろうか。魂魄妖夢の持つ思いが、純粋で強いものであればこそ、彼女は
最も悟りに近く、また同時に最も遠い者でもあるのだろう。
 何であれ、目標とは、永劫に届かぬからこそ美しく尊いものなのやもしれぬ。

 因みに時間についての言葉についてもちょっと述べておこう。
 既に語ったように一念とは大変短い時の長さを示す言葉でもあるわけだが、一説に一念とは
六十刹那とも九十刹那であるとも言う。この刹那は梵語ksanaの音訳で、やはり大変短い時の
長さを表す。
 同じような時の単位に「瞬」や「弾指」がある。それぞれ比較すると次のようだという。
  一瞬=二十念
  一弾指=二十瞬=四百念
  一弾指=六十五刹那
これらについては、和算で用いられる数詞(厘とか億とか)にも同じ名称のものがあるのだが、
これとは微妙に違っているようだ(一弾指=十刹那)。
 結局、体系がまちまちなので、全体では計算が合わないのだがまあ、こんなもんだろう。
 時間の長い方の単位では「劫」が有名だな。これもちゃんとした定義がある訳ではないのだが、
「本業瓔珞経下巻」に拠れば、天人が方四十里の石を三年に一度、その羽衣で撫で、石が擦り
切れて撫で尽くされるまでの時間を一劫というらしい。細かい数値に異説があるので、これもとて
つもなく長い時間という以上の意味はないのだがな。

 
 たいした意味もない語りに最後までつきあって貰って悪かったな。
まあ、太平記や平家物語は軍記物だが怪異に関する挿話などもあって面白いし、近世の怪談の
元ネタだったりする。一度読んでみることを奨めるぞ。

六道剣 一念無量劫



参考文献
・『太平記』(『日本古典文學大系』岩波書店)
・国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館1979
 ほか、江戸時代の怪談集、民俗学、歴史学の諸文献、『広辞苑』等の辞書

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