人形送りの夢

(目次)
 1.人形送りの夢 −祓えと雛人形−
 2.境界の人の形 −神送りと人形−
 3.人形殺しの夜 −呪詛と人形−



人形送りの夢



 かつての民俗社会では、「人形」は単なる玩具ではなく、信仰に関わる様々な意味を持っていました。
 例えば、境界における防御と祓えにも関係し、一方で呪詛の際にも用いられました。そして、これらの性質は、現在の人形ともつながっているのです。

 それでは、三月三日の上巳の節句に因んで、人形に関する境の殺戮・番外編をお送り致します。



人形送りの夢

1.人形送りの夢

 雛人形の原型として、禊ぎ・祓えに関する人形(ひとがた)・形代(かたしろ)の信仰があります。これは、身体の穢れや災いを、身代わりの品(祓具:はらえつもの)に移した上で川に流すなどして外界へと追放するという考えです。その時用いられる人間の形をしたものをヒトカタ/ヒトガタと呼んだのです。また、旧暦六月、十二月の大祓えで用いられた人形を贖児(あがちご)と言います。
 この種の儀式では、草や紙で作った人形で体を撫で、様々な災いや厄を人形へ移すのです。そのため、撫物と称する場合もあります。また、名前や年齢を書いた人形に息を吹きかけて罪穢を移す方法もあります。現在も残る流し雛の源流は、この祓えの習俗だと言われています。

 かつて陰陽師達が用い、今でも神社の大祓えなどで使用される人形は紙を切り抜いて作られています。一方で、『延喜式』などの記録によれば、金銀鉄などの金属製、木製や布製のものもあったといいます(*1)。大きさも15センチ程度から等身大まで、様々なものがありました。

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 子供の遊び道具の人形(にんぎょう)の原型も、この種の人形だと言われています。
 例えば、天児(尼児/天倪、あまがつ)と呼ばれるものは、当初は祓えに際して子供の傍らに置かれ、災厄を移し負わせるものでした(図1)。しかし近世には、子供の枕元に置く魔除けの人形へと変化しました。また、這子(ほうこ、御伽這子、或いは這い這い人形とも呼ばれるもの)は、幼児の姿のぬいぐるみ人形ですが、これも元は天児の一種で、枕元に置かれた魔除けでした。
 これらはやがて玩具としての性格を強めていったのです。
 もちろん、人の姿に似せたモノの発生は、遙か古代まで遡ります。縄文・弥生時代の土偶や古墳時代の埴輪などが人形の原型でしょう。呪術や信仰の道具として用いられたと考えられています。祓えに使用される人形(ひとがた)が登場するのは平安時代とされています。なお、当初、総称として用いられていた呼称が、「ひとがた」から「にんぎょう」へと変わったのは鎌倉時代と言われています(*2)。
図1 天児
図1 天児
図2 這子
図2 這子

 雛人形も、このような人形信仰と、大陸の上巳(月の最初の巳の日)の節句の儀礼が結びついて誕生したものとされています。つまり、節供行事の後、身の穢れや災厄を移して水に流し捨てる人形(ひとがた)が、遊び道具の紙雛と混交したのです。なお、雛(ひいな/ひひな)とは「小さく可愛らしいもの」という意味です。貴族の少女の人形遊びは「雛(ひいな)遊び」と呼ばれ、紙雛が用いられていたのです。
 ひいな/ひひなの起源は、遣唐使廃止による国風文化が確立する時期にあたる延喜年間(西暦901〜923)とも言われています(この頃節句行事が宮中に定着したとされます)。例えば、江戸期の国学者の屋代弘賢は、ひいな/ひひなの起源について、「承平年間(西暦931〜938年:引用者註)の前より行はれしことうたがいなかるべし」と記載しています。

 ところで、雛人形には子授けの呪術としての意味もあったことが指摘されています。ひいな遊びは清涼殿で行われ、男女和合を象徴する一対のひひなを祀ります(*3)。さらに、外戚として権力を振るった藤原氏(*4)が特にそれに熱心だったとされます。
 こうしたことから、『郷土玩具辞典』等の著者である齋藤良輔は、宮中におけるひいな遊びは、道教に影響を受けた子授け祈願行事であったと想定しているのです。
アリスと雛人形
 雛人形は早くから装飾化し、主に大名や公家社会で発展してゆきました。江戸時代には雛遊びは雛祭りとなって一般家庭にも普及していったのです。
 それでも、後世の雛飾りにも神事であった雰囲気を見て取ることができます。例えば、ひな壇は神棚とみることもできます。そして、雪洞(ぼんぼり)等の灯りは、夜の神事を思わせる物でもあるというわけです。特に初期の紙雛は“神雛”であり、古い人形信仰の姿を残していたとされます。また、江戸期の雛人形を売る「雛売り」は、身なりを正した紋服姿であったといい、これも雛人形が単なる玩具では無かったことをうかがわせる事実と思われます。

 室町時代以降、大陸(明王朝)の技術が導入されて人形製作技術が向上したことなどから、簡単な紙製の立雛から、衣装を纏う座雛となり、その結果高価で豪華な美術品といっても良い存在になりました(*5)。
 立雛の起源は諸説ありますが、江戸期の人形の室町時代風の装束(男雛は烏帽子に小袖、袴、女雛は小袖に幅の細い帯)であることから、15世紀には既に立雛が現れていたという考え方もあります。
 同様に座雛の原型も室町時代からあったと言われていますが、安土桃山時代には存在しており、完成したのは江戸時代と思われます。座雛の現存最古のものが寛永雛です。これらの雛人形は、寛永雛を始め、享保雛、次郎左衛門雛、有職雛、古今雛(京都の次郎左衛門雛と相前後して江戸で考案された雛人形)など、その意匠によって固有の名前を持っています(現在の主流は古今雛の流れで、江戸時代後期に現れた形式とされています)。

 ○寛永雛 :現存最古の座雛で束帯姿。表情は面長、古典的な気品を持ちます。
 ○享保雛 :寛永雛をさらに大型、高級にしたもの。高さが45〜60センチあり、金襴や錦を用いた豪華な衣装を用います。男雛は両袖を張り、太刀・笏を持つ。女雛は五衣、唐衣姿、表情は寛永雛に似て面長。余りに豪華なため、禁令が出たりもしました。
 ○次郎左衛門雛 :絵巻に描かれるような大和絵風の丸顔、引目鍵鼻の雛人形。京の人形師、雛屋岡田次郎左衛門が創ったもの。宝暦十一年(西暦1761年)に江戸に進出、王朝風の衣装が復古的な趣味に合い、享保雛に代わり以後三十年に渡って流行しました。
 ○古今雛 :次郎左衛門雛と相前後して考案された江戸製の人形。日本橋十間店の人形師、原舟月が創ったもの。眼にガラスや水晶を嵌めるなど、写実的・精巧に作られました。京雛が高貴で端麗な面差しであったのに対し、当時流行の柔和な顔立ちで江戸っ子の好みに合うものでした。

 こうして人形が豪華になって行くにつれ、飾り方も派手になって行きました。京都では御殿飾りや源氏枠(屋根の無いもの)(*6)などと呼ばれる御所風の飾り台が現れ、江戸では金屏風を立てた段飾りが用いられるようになりました。
 最初は立雛のみを平台に飾り、菱餅・白酒を供える程度でした。しかし、宝暦年間(西暦1751〜64)には2〜3段の雛段形式となり、安永年間(西暦1772〜81)には4〜5段と増加し、江戸末期には7〜8段のものも出現しました。また、男女対の雛だけであった雛人形も、江戸中期には2段目に京形式の三人官女、3段目に五人囃子(江戸で考案)、4段目に京風の随身、さらにその下には調度などを飾る、という風に規模が拡大して行きました。そしてこの形式が明治以降にも継承されたのです。現在でも5〜7段の15人飾りが標準のようです。
 一方で、庶民は様々な素朴な雛人形や変わった雛人形も生み出しました。それは土雛や紙雛、張り子、押絵などで、郷土雛とか変わり雛と呼ばれるものです。中には芥子雛という三寸(9.9センチ)以下の雛人形もあります。これは幕府が奢侈禁止令の一環として、大型の雛人形を禁止したために作られたものです。小さくとも非常に手が込んだ繊細なもので、素材には象牙を用いたものもありました。
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 江戸時代初期以降、雛人形が普及すると、これを元に様々な人形が登場してきました。節供人形(雛人形、五月人形)、御所人形(丸々とした体の裸の童子)、嵯峨人形(木彫に極彩色)などです。商工業が盛んになると、人形も商品化され、製作の技術技法は著しく向上したのです。また、社寺の門前では、土産物・縁起物として各種の人形が売られていました。多くは土製であり、京都の伏見人形が源流と言われます。
 ところで、近世の人形生産の中心地は京都でした。京都では嵯峨人形、加茂人形を始め、多くの種類の人形を生産していました。その中に、当時の風俗を浮世絵風に人形化した衣裳人形(浮世人形)があります。これは若衆や遊女の風俗を題材とし、体は胡粉彩色で裂(きれ)地の衣装を着付けたもので、「京人形」と呼ばれました(*7)。

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 一方には、平安末期より傀儡師(くぐつし)が舞わせた人形の潮流があります。この人形も、依代(よりしろ)、形代(かたしろ)として、人々の信仰と関わっていたと考えられています。傀儡師の操り人形は、山車に乗せられたりする絡繰(からくり)仕掛けの人形へとつながり、また人形浄瑠璃の文楽人形へともつながってゆきます。因みに、女の文楽人形には足が無く、裾さばきのみで足の動きを表現します。

 こうしてかつてのヒトガタは、現在も見られる多様で華やかな人形達へとつながっていったのです。
(註)
 *1:縄文時代から古墳時代までは、土製の人形が数多く作成されたと考えられています。8〜9世紀の祓えの人形は大陸の影響が大きく、それ以前の人形との関係はまだ不明な点が多いようです。縄文期の人形(土偶など)は、豊饒祈願や病気平癒のための呪術に用いられたようであり、古墳時代の人形(埴輪など)には、鎮めものとも呼ばれ、『肥前国風土記』に見られるように、人身御供との強い関連が見られます。
 *2:同じく鎌倉時代には、貴族の子供の遊び道具であった「ひひな」も、「にんぎゃう」と呼ばれるようになったと言います。
 *3:大阪の住吉神社では、現在も夫婦和合の子授け祈願人形(裸雛)を出しています。
 *4:藤原氏(中臣氏)は元々祭祀を司る氏族であり、祓えや禊ぎはその職掌するところでありました。人形信仰や上巳の節句は禊ぎ祓えの考え方に基づいた儀礼であり、雛人形もその系譜を引いているといえます。したがって藤原氏全盛の王朝期に、この行事が発展したのは偶然ではないのかも知れません。
 *5:雛人形を売買した雛市では祝儀値段で取引が行われたと言います。祝儀値段とはいえ、元禄時代には数千万円に相当するものもあったとか。大名相手の雛道具は百両以上したと言います。天保の改革では十両以上の雛は没収され、臼で撞いて壊されたそうです。
 *6:源氏枠は『源氏物語』に代表される王朝文化への憧れの現れとも言うことができます。
 *7:人形の名称には明確な規準がある訳ではないので、様々な解釈も可能です。「京人形」も、広義の場合は京都で製作された人形全般を指すことになり、嵯峨人形や伏見人形も含まれることになります。また、『広辞苑』などによれば、狭義の「京人形」は、おかっぱ頭の少女の人形で、着物を別に作って着けるもの、ということになります。
 また、「京人形」には常磐津・長唄の題目の一つであり、その趣向は左甚五郎作の京人形に魂が入って踊るというものです。

2.境界の人の形

 次には、民俗社会で境界を護る儀礼と関連する人形を見てゆきましょう。

 かつて人々は様々な災厄から逃れるために、それらを統御する“神”をなだめ、排除する儀礼を行いました。天然痘などの疫病や天災は、外界より訪れる悪しき神霊(行疫神、疱瘡神等)による(あるいはその配下の存在による)ものと考えられていたからです。逆に言えば、かつての民俗社会では、様々な災厄を神霊として祀り上げることで、(人間にとって)不条理な災害や疫病を説明・理解し、それに対抗する具体的手段を考え出していたと思われるのです。
図3 人形道祖神
図3 人形道祖神
 これらの儀礼は「神送り」と呼ばれ(*3)、悪神・悪霊を饗応した上で外部へと追放する形式を取ります。例えば、疱瘡神を送る場合、藁馬や桟俵(米俵の両端の蓋)に赤い御幣を立てて赤飯を供え、それを路傍や川、村外れに捨てるのです。
 こうした神送りは、共同体のレベルで行われる場合もあります。年中行事として、あるいは何らかの災いが訪れたとき、罪穢れや災いをもたらした悪しきモノを、人形に託して異界へと送り返すのです。この儀礼は「人形送り」、「鹿島流し」などと呼ばれ、藁などで巨大な人形を作り、これを舟に乗せて流したり、村外れで焼いたりしました。虫害の除却を祈願する「虫送り」も同じ内容の儀礼です。害虫を恨みを残して死んだ人物の御霊によるものとし、それを人形に取り籠め、饗応の後に追放(人形を流す、あるいは燃やす)し、害を防ごうとするものです。先に述べた流し雛も、基本的には同じ考えによるものだということができるでしょう。柳田國男は津軽のネブタ/ネプタも、灯籠と人形が結びついた一種の神送りであると考えていました。
 こうして送られる人形は、カシマサマや鹿島大助、実盛人形、弥五郎などと称する巨大で人間の形をしたものが多いのですが、虫送りの際に用いられるものの中には、龍蛇のような形の「虫」であることも有ります。人形は災厄の一切を負う「犠牲の総代」なのです。

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 一方で、共同体が作成する人形には、「送られない」ものもあります。これは人形道祖神と呼ばれ、怖ろしい姿をして境界で防御を司るものです。東日本一帯に見られ、4メートルもの巨大なものもあります。神送りの本質が、災いを村落の外に「送り出す」こととされたために、送りの終点で人形を祀れば良いということになったとも言われています。一説には、こうした人形は元々は疫神の姿を表したものだったといいます。つまり、最初、村境へと送られた人形は人々の災厄・穢れを一身に背負うことで怖ろしきモノとなりました。しかし、強大な力を持つモノは、上手く利用すれば逆に外部から侵入する悪しきモノを防ぎ止める威力を有すると考えられるようになったのです。つまり疫神が大きな力を有するが故に、疫神の姿の人形を祀ることにより、外部から訪れる疫神を制しようと考えたという訳です。
 こうした人形には様々な名称、姿のものがあります。全身が藁でできているものもあり、木製のものも、頭部が木製(木製面)のものもあります。角を生やすものや、男女一対のもの、刀を差したりしているものなどもあります。図3に示したのは福島県田村郡船引町の御人形様です。高さ3.5m、木彫りの面をつけます。旧暦3月15日に祭りを行います。
(註)
*3:実際の行事の名称が「神送り」である場合は決して多くはありませんが、目的や儀礼内容が共通していることから、各地の“何々送り”と呼ばれる行事の総称として「神送り」という名称が用いられています。

3.人形殺しの夜

 さて、こうした人々の穢れを引き受ける人形は、一方では呪詛にも用いられました。これらはニンギョウではなく、ヒトガタと呼ぶのが普通のようです。
 人形を用いた呪詛は、人形を呪うべき相手に見立て、その人形に加えた害が本人にも及ぶことを期待する類感呪術です。広く世界にも見られる邪術といえます。
 この種の呪術は我が国でも古代より行われていたようで、祓えに用いられた人形とは別に、心臓や目に約1p程の木釘が打ち込まれた呪いの為の人形が平城宮跡(古井戸の底)から出土しています(*4)。この手法は、呪禁道(じゅごんどう)系の呪術、所謂厭魅(えんみ)の法であり、奈良時代にはしばしば禁令が出されています。


図4 木製人形
図4 木製人形
 なお、出土した人形は木製(図4)でしたが、「呪いの人形」の素材は季節毎に様々な種類を使用したようです。高知県に残る、いざなぎ流のひとがた人形製作の作法から、それをうかがうことができます。その素材は、正月松葉、二月茅萱、三月桃花、四月麦藁、、五月青葉、六月卯の花、七月そおはぎ、八月稲葉、九月菊花、十月芥子菜、十一月白紙、十二月氷などです。これらの人形を様々な手段で責めるのですが、釘や針を使う方法が最も有名です。
 この、人形に針や釘を打ち込むという呪術は、病気や憑き物を祓うために用いられることもあったようです(*5)。これは、平安時代などに行われた、病気平癒のための祈祷の方法の流れを引いたものと考えられます。祈祷の方法とは、病などをもたらす物の怪を、憑坐(よりまし)へと駆り移し、これを責めて退散させるというものです。憑坐は多く子供や女性が務めましたが、これが人形に置き換えられたと考えれば、理解できるように思います。

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 近世以降の人形を用いた呪術としては、丑の刻参りが有名でしょう。その手法は様々に伝えられていますが、一般には白装束に高下駄、頭には五徳を逆しまに被り、そこには三本の蝋燭、胸の裡に鏡を収め、櫛をくわえて五寸釘と金槌を持つ姿が普通でしょう。
 丑の刻(午前二時、あるいは午前一時〜三時の二時間)に神社へ参り、藁人形を神木に打ち付けるのです。これを七日間続けると事が成就すると言われます。人に見られると効果がないというのも良く語られることです。なお、十二支(丑=牛)の類推からか、毎夜横たわるする牛を跨ぎ越えねばならないという決まり事が有ったと言います。
 因みに、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』には「丑時参」があり、金槌を持つ女性と牛が描かれています。詞書きには「丑時まいりハ胸に一ツの鏡をかくし、頭に三ツの燭(ともしび)を点じ、丑三ツの比神社にまうでゝ杉の梢に釘うつとかや。はかなき女の嫉妬より起りて人を失ひ身をうしなふ。人を呪詛(のろは)ば穴二つほれとはよき近き譬(たとへ)ならん」とあります。

 胸に潜ませる鏡は、修験者が魔除けのために背に鏡を懸けるという行為を逆様にする、つまり魔を招く事を暗示する行為と言います。また、五徳を被るのはそれに象徴される徳(温、良、恭、倹、譲)を逆さにして捨て去ることを意味しているのでしょう。櫛も神の依り代として使われることのある道具です。これらは、『太平記』や、謡曲の「鉄輪」などに出てくる、鬼と化する貴船の女の姿とも重なります。その姿は、顔に朱を指し、五つに分けた髪を角に擬し、身に丹を塗り、鉄輪を戴き松明をくわえるというものです。
アリスの丑の刻参り

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 結局の所、この呪術も古き厭魅の法の流れを汲むものと考えられています。これは、民間信仰における人形の持つ意味が、遙か古代から近世に至るまで、連綿と受け継がれていたことを表しているのではないでしょうか。 

 箱を出る顔わすれめや雛二対  蕪村

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 とりとめのない話に、最後までつきあって頂いてありがとうございました。
 それではまた、因果の律が交わる時にお会いしましょう。

   [おしまい]

(註)
*4:表裏に名前が記され、心臓部分に鉄釘が打たれた人形も出土しています。
*5:平城京跡などで発掘された、釘を打たれた人形の中には、名前が書いていないことなどから、病気平癒のためのまじないに使用されたと考えられているものもあります。

参考文献
 『東日本の神送り行事』青森県立郷土館2002
 斉藤良輔『人形 第4巻:雛人形と武者人形』京都書院1986
 山田徳兵衛編『図説 日本の人形史』東京堂出版1991
 岩井宏實監修・近藤雅樹編『図説日本の妖怪』河出書房新社1990
 小松和彦『憑霊信仰論』(講談社学術文庫1994)
 柳田國男「一つ目小僧その他」(『柳田國男全集』6巻、筑摩書房1989)
     「神送りと人形」(『定本柳田國男集』13巻、筑摩書房1963)
 金子裕之『日本の美術 No.360まじないの世界Ι(縄文〜古代)』至文堂1996
 巽淳一郎『日本の美術 No.361まじないの世界U(歴史時代)』至文堂1996
 高田衛監修『鳥山石燕 画図百鬼夜行』国書刊行会1992
 多田克己『百鬼解読』講談社1999
 豊島泰国『図説日本呪術全書』原書房1998
 喜多村信節『嬉遊笑覧』岩波書店2002
 国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館1979
  ※『広辞苑』他各種の辞書、百科事典



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