○平成18年5月
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天知る、地知る、我知る、人知る
『後漢書』「楊震伝」の故事による
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上白沢慧音 | 四季映姫 |
上白沢慧音:ふむ、この言葉の大意は、天地の神は常にあらゆる事を見ている。だから悪事や
隠し事は何時かは露見するものだ、という事だ。まあ、悪事の隠微を戒める言葉
と言えよう。
出典となった故事は范曄の撰による『後漢書』(南朝宋時代)中の「楊震伝」に
ある。楊震は字(あざな)を伯起と言い、後漢、安帝時代の名臣だ。これは彼が
東莱郡の太守であった時の逸話とされている。あるとき、楊震がかつて茂才(*1)
として推挙した昌邑の県令、王密が賄賂として金十斤を彼に贈ろうとした。断る
楊震に王密は「暮夜無知者(暮夜、知る者無し)」と言った。それに対して楊震
は「天知、神知、我知、子知、何謂無知(天知る、神知る、我知る、子知る、何
ぞ知る無しと謂わんや)」と答え、王密は恥じて去ったという。
つまり、“こんな夜、賄賂を受け取っても誰にも知られませんよ”と言った王密
に対して、“誰も知るまいといっても、天地の神はこれを照覧している、それに
私も知っている、貴方も知っているではないか、悪事は隠し通す事など出来はし
ないのだ”と答えた訳だ。
四季映姫 :そうそう、それで「楊震伝」の賛には「震は四知を畏る」とあって、この故事は
四知という言葉でも知られています。
上白沢慧音:これは閻魔様ではないですか。
:こんな所まで珍し………くもないですね、最近は。
四季映姫 :裁判も判決もやりっ放しでは駄目。事後のフォローが大切です、そうでしょう?
それに裁きを下すべきことは沢山あるのです。
上白沢慧音:はあ、そうなんですか?。
………えっと、何処まで話していましたっけ。
四季映姫 :『後漢書』の紹介迄ですよ。何故「地知る」なのかの説明がまだではないですか。
上白沢慧音:ああ、そうでした。我が国では一般に「地知る」の形で流布している。これは、
おそらく、我が国近世に広く親しまれた『十八史略』によると思われる。『十八
史略』は宋末元初の歴史書で、曾先之の撰と考えられている。内容は比較的簡単
でわかりやすく、今日に伝わる故事の多くはこの書によるものだ。四知の故事の
載る「東漢 安帝」では、「神」の代わりに「地」と表記されているのだ。ただ
し、曾先之自身は宋代の司馬光の編纂した歴史書『資治通鑑』の記述を採用した
と考えられるがな。
四季映姫 :天網恢々疎にして漏らさず、天の裁きからは誰も逃れられません。………それに
自分の内なる良心からもです。
上白沢慧音:お天道様が見ているというやつだな。………まあ、幻想郷では文字通り視ている
者が居るわけなのだが。
四季映姫 :他者の視点を想像できると言うことは、規範を持って生きる為には必要な事です。
それより、折角ですから楊震について歴史的に解説して呉れませんか。
上白沢慧音:楊震伯起は優れた人物だったらしい。『十八史略』には「震は関西(*2)の人な
り。時人之を称して曰く、関西の孔子は楊伯起、と」とある。後漢の安帝の治世
下、ケ太后に登用され、太尉(三公の一つ)という要職に付いていた。楊震は権
臣に媚びず、帝にもしばしば諫言した。宦官や帝の乳母などの取り巻き連中は、
帝が楊震の正論を取り上げることを恐れて讒言し、楊震に無実の罪を着せた。職
を追われた彼は洛陽城西の夕陽亭で毒を仰いで自決したという。
ちなみに後世の隋の王族楊氏は彼の後裔を称している。実際には北方の異民族の
系統らしいが。
四季映姫 :「死は士の常分なり、吾、恩を蒙りて上司に居る姦臣狡猾を疾(にく)みて而も
誅する能はず、嬖女傾乱を悪(にく)みて而も禁ずる能はず。何の面目か復(ま)
た日月を見ん」
上白沢慧音:それは彼の最期の言葉ですね。序でに楊震の最期の様子を『十八史略』から引用
してみよう。
:「三公と為るに及んで、時に宦者及び上の乳母王聖、事を用ふ。皆請託あり。震
従はず。又屡々近習を以て言を為し、共に之を構ふ」
:(楊震が三公となると、宦官や帝の乳母の王聖という者が権力を握っており、何
れも自分の身内の引き立てを依頼してきたが、楊震はこれを取り上げず、返っ
てこれらの者を退ける様に度々言上した)
:「策して印綬を収む。遂に死す。葬るの日、名士皆来たり会す。大鳥有り、高さ
丈余、墓前に至って俯仰し、流涕して去る」
:(彼らは共謀して楊震を陥れた。帝はこれを信じて免官の辞令を賜り、三公の印
綬を取り上げた。楊震はとうとう自殺した。葬儀には心ある者が皆集まった。
またこの時一羽の大きな鳥が現れ、墓前に礼拝し、涙を流して去ったという)
四季映姫 :そう、流石に良く知っていますね。死を賭しても己の信念を貫こうとした人物の
悲劇ですね。………さて、貴方はもうわかっているのでしょう?私がここに来た
理由を。
:貴方は貴方の様な存在がなぜ此処に居るのか、考えたことがありますか。そして
貴方が幻想郷で担うべき役割について考えたことがありますか。
:貴方はこの幻想郷を識り、その歴史を司るほぼ唯一の存在。そんな貴方は何故人
間の里に固執しているのですか。過去を語る事の持つ力はとても大きいのです。
時にそれは未来をも決めてしまう。現実の過去は失われ、結局残るものは語られ
た歴史のみ。貴方はその力を知りながらある特定の存在に心を寄せている。
上白沢慧音:私がこの世界にある理由………。私が人間の里を護る理由、………それは………。
四季映姫 :貴方はそれを「正しい」事だと言うかも知れない。でも、正義の名の下に行われ
てきた無数の蛮行を、貴方は知っているはずです。そう、信念と執着との差異は
紙一重、声高に語られる正義の空しく空虚なことを。それでも総てのことを理解
しながら、敢えて「正しい」主張を続けるならば、それは貴方の個人的な思いを
隠微するだけのものに堕してしまうでしょう。たとえ貴方が人間の守護と秩序の
維持を象徴する白澤の一族だとしても。
上白沢慧音:……………………。
私はこの幻想郷の秩序を護りたい。………いや、私は人間達を守りたいのだ。そ
う、それは私が人間が、この世界が好きだからだ。確かに人間達は一面愚かで罪
深い存在だ。だが、少なくとも私にとっては愛すべき存在だ。
:しかし私は、人間を守ることはこの幻想郷の為にも必要だと思っている。勿論、
妖怪に劣らぬ大きな力を持つ人間もいるが、その者達は概して他の人間に対して
無関心だ。力を持たない人間を誰かが護らねば、微妙なこの世界のバランスはい
とも容易く崩れてしまうだろう。幻想郷にとって人間は必要な存在だ。力を持つ
ほんの一部の人間だけでは幻想郷の秩序を維持できはしない。
四季映姫 :確かにその通り。貴方の理論は一貫していて瑕もない。でも、その余りに真っ当
な主張は本当に正しいのでしょうか。正義や価値観は所詮その時代に制約された
相対的なものに過ぎない。貴方は本当はそれを知っているはずです。
:そう、貴方は余りに正論を吐きすぎる。誰にも反論を許さない完璧な正論は、返
ってその論理そのものが多くの者達を傷つける強力な武器になる。
:正義や正論の名の下に傷ついてゆくものは数え切れない。しかも歴史を司る貴方
はそれを知っているはずなのです。その時代の正義や価値観を相対化できないま
まの過去の記述は歴史ではない。
上白沢慧音:――――――。
:それでも私は私の信念を貫きたい。この道を進み続けることが私の願い。それが
白澤の血を引く私の運命でもあるから。そしてこの道を、………この倫を行く事
は私が決めたことなのだから。
四季映姫 :頑固ですねえ。正論はその大きな力の隠れた部分を充分認識しなければならない。
そしてその事を知っているならばなおさら、柔軟な姿勢で臨まねばならない。歴
史はその限界を知って語られねばならないのと同じように。………そして時には
自らの気持ちに正直になることも必要です。大義名分や論理的整合性に偏した主
張はたとえどんなに正しくも血が通ったものにはなり得ない。
………さあここで今、私の裁きを受け入れるのです。
:罪符「彷徨える大罪」!!
上白沢慧音:私はもう逃げない。私は何者も恐れない。………この倫のために。
:包符「昭和の雨」!
○「東方花映塚」 エキストラ:隠しステージ(人間の里)へ続く…(わけがない)
四季映姫 :人間の里を護り、巫女の代わりに幻想郷の秩序を維持すること。そして、貴方が
その役割を担うことの意味をもう一度考えること。
それが今の貴方が積める善行よ。
*1茂才:前漢の秀才の後漢での呼び方、科挙の試験科目。転じて科挙に受かった人物を指す。
*2関西:中国大陸の地域名、函谷関よりも西を指す。現在の陝西省・甘粛省に当たる。
参考書:
曾先之撰(林秀一)『十八史略(上)』(『新釈漢文大系』20 明治書院1967)
陳舜臣『中国の歴史5 動乱の群像』(平凡社1981)