今月の御言葉

○平成18年6月

マスター・白澤 歴史は単なる過去でも単なる永遠でもない、
寧ろ我々の現在を支えるものである。


  歴史は単なる過去でも単なる永遠でもない、
  寧ろ我々の現在を支えるものである。
          矢内原伊作『小林秀雄論』(昭和23年)より


境目に潜む妖怪 歴史喰い
八雲紫 上白沢慧音


上白沢慧音:歴史とは何なのか、歴史が現在に対して持つ意義とは何なのか。歴史に関わる者
      にとっての最も基本的で、しかも最も困難な問題だ……。これは言い換えると、
      過去に対していかに向き合うかという姿勢の問題でもある。
      概念上の堅固なる結界により隔離されたこの世界にあっても、それは変わらぬ。
      私は幻想郷の過去の事実を総て知識として持っている。……だが、それは決して
      私が「完璧な」歴史を構築していることを意味するのではない。そう、歴史は単
      なる過去の事実の蓄積ではないのだ。
      それに近代化の限界が見えた今日では、最早「進歩する」歴史を奉じることさえ
      出来はしない。今や、我等生きとし生けるものへ、現在の意味と未来への展望を
      与えることさえ、歴史には不可能なのだろうか。
八雲紫  :あらあら、貴方はまだ「正しい」歴史を信じているのかしら?それとも唯物史観
      にはまだ有効性があるとでも?
上白沢慧音:…………またか。全く余程暇なのか?………まあ、暇なんだろうな。
      そなたの周りにも充分な見識を持った連中がいるだろうに。
八雲紫  :ふふふ。議論とか討論というのはね、論理的に語ることから始まるの。あの連中
      は理解は出来てもそれを言葉にして表すことは不得手なのよ。
上白沢慧音:そんなものなのか?
      ともかく私だって、流石にそんなにナイーヴな歴史観は持ってはいないが。

八雲紫  :先ず第一の問題。妖怪が蔓延り、周囲と隔絶された此の地に歴史は必要なのかし
      ら。唯に循環する季節と日々、繰り返す日常。遙かに長い命を持つ者との共存。
      そんな世界でも歴史は有効なのかしら。

上白沢慧音:そうだな。だが、今此の地に在るモノ達はいずれ誰もが過去の蓄積の上に存在し
      ている。意識をするしないに拘わらず、歴史と無関係では居られないはずだ。そ
      もそも、時間の経過という概念を持つモノ事自体が、歴史的な認識方法と言える。
      謂わば、歴史と関わることは未来を手に入れることと対になっているのだ。
      そう、歴史は現在を支えるものであるのだ。……それは私の願いでもあるがな。
八雲紫  :ふーん。ま、刹那に生きる大多数の生き物は時間を認識しない。それらのモノに
      は歴史はなく、未来もないわね。でもそれだけなら過去の知識、行動の指針とな
      る単なる先例、様態を変えた現在の連続に過ぎない。あなたの言う「歴史」とは
      一体何?ヘーゲルの絶対精神かしら、それともランケの実証主義的な近代歴史学
      かしら。

上白沢慧音:嫌な事を言うやつだな。歴史には完全な姿など無い……。歴史は「科学性」とは
      相容れないものなのだろう。絶対的な歴史的事象など存在しないのだ。語り手の
      持つ概念の元にのみ、関連性としての歴史が現れてくる。……そんなことはそな
      たならとっくに承知しているだろうに。
八雲紫  :唯一度きりの過去の事実。反証不可能な歴史は科学たり得るか、ねえ。でもね、
      認識手段として社会学を用いることで、個別の歴史的な事柄を説明することは
      可能なのではないかしら?
上白沢慧音:アナール学派的な物言いだな。
      おそらく、あらゆる歴史的事実を説明する様な全体的な「歴史」など存在しない
      のだろう。あるのはあくまで相対的な観点、差異によって個別化された事象の、
      謂わば「目録」なのだろう。当然、単純な進歩史観や唯物史観は排除されるだろ
      う。「歴史哲学」も同様だろうな。
      そして民族史や文明による説明、時空連続体などは歴史における有効性を失うだ
      ろう。
      歴史は語り手の問題意識から生じるもので、「正しい」歴史など存在しない。
      ……それでも私は未来に対する歴史学の持つ力を信じていたい。
八雲紫  :―――貴方には歴史を捏造する力さえ備わっているのにねえ。実際歴史は、個人
      にせよ共同体にせよ社会にせよ、その未来を強く拘束するわ。貴方はそれを知っ
      ている筈なのに。ただそれを分類し、解釈し語るだけだと言うの?
上白沢慧音:!!
      ふん、強大な力を持つそなたに言われたくないな。境界とはまさにこの世界その
      もの。この世界のモノは総て境界によってその意味を持ち得ているのだ。自己と
      他者、家族と他人、共同体とその外側…………。この世界を構成しているのは、
      何重にも重なり合った境界だ。歴史だ運命だと言う以前に、先ず第一にこの世界
      を認識する為に境界が必要なのだ。境界が無ければ自己も世界も認識し得ない。
      だから、そなたは境界を操ることで、自分に都合良くこの世界をデザインし直す
      ことさえ出来たはずなのだ。
      何故だ?何故その力を使わない?その力を持ってすれば、異変も哀しみも、そう
      したことが何も起こることさえない世界を造り上げることが出来るだろう?
八雲紫  :私はそんな野暮なことはしないわよ。自分に都合良くデザインされた世界なんて
      きっと退屈で堪らないわ。
     :貴方にこそ聞きたいわね。今ある自己を支えているのは過去の自分。それを改変
      することの出来る貴方の力を、どう思っているのかしら。過去無くして現在も無
      い。個人にせよ、社会にせよ、過去を与えてくれるのは歴史だけ。
     :運命を操るにせよ、時間を操作するにせよ、普通自由に出来るのは未来のみ。
      でも貴方は違う。本来不確定な未来ではなく、不変たるべき過去に干渉する……。
      それはどんなにか畏ろしく、強力なことか。
     :ま、妖怪にとっては、そもそも白澤の能力自体が天敵みたいなものだけど。白澤
      はこの世界のあらゆる魑魅精怪の知識を持つ。人外にとって、正体を知られてい
      ると言うことは負けを意味しているもの。僅かな気の緩みから、相手に本当の名
      前を知られただけで、通力を失い退治された妖怪は数知れないわ。
      貴方は幻想郷の知識をもち、過去に干渉する能力を持っている。貴方こそ幻想郷
      を思うがままに造り替えられるのではないかしら。
上白沢慧音:……………。私には私の掟がある。
      他人の過去に干渉するとはどういう事なのか、考えたことがあるか?それは他者
      の生の否定であり、その生き様への冒涜となろう。私は他者の生きてきた過程を
      奪う様なことはしたくない。そう、それに一つ規範を越えると歯止めが無くなっ
      てしまうから………。
     :私の持つ本当の力を使うとき、その時には―――――。

八雲紫  :貴方って固いのねえ。なんだってそんな回りくどい言い方しか出来ないのかしら。
      素直じゃないわねえ。思う通りにならないことだってある、だからこそこの世界
      は楽しい。それでいいじゃない。ありのままの世界、それが一番美しいわ。
      それに、自らの意志で不確かな未来へ向かって懸命に生きる姿。あなたはそんな
      人々を見るのが好きなのでしょう?
      そしてだからこそ貴方は歴史を語る。そのことでかつて未来に向かって懸命に生
      きた人々の姿を鮮やかに描き出す。それを未来へと伝える為に。

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