今月の御言葉

○平成18年9月

上白沢慧音 江月照松風吹 永夜清宵何所為


  江月照松風吹 永夜清宵何所為
 (こうげつてらししょうふうふく えいやせいしょうなんのしょいぞ)

          永嘉大師玄覚『證道歌』第百三、百四句


上白沢慧音 八雲紫
上白沢慧音 八雲紫


上白沢慧音 :夜更けて月の夜にあらたまりぬ。影玲瓏としていたらぬ隈もなし………。
:ふっ。早くも秋の気配か。時の流れは早いものだ。………そう、あの異変からも随分経った。これは何度目の満月だろう。
:江月照松風吹(こうげつてらし しょうふうふく)。永夜清宵何所為(えいやせいしょう なんのしょいぞ)。
八雲紫 :作麼何所為!(そもさんなんのしょいぞ)
上白沢慧音 :………ああ、何だスキマ妖怪か。
:私は青頭巾ではないぞ。ま、装束が青いといえば青いがな。
八雲紫 :なんかテンション低いわねぇ。そんなんじゃ悟りは得られないわよ。
上白沢慧音 :………別にテンション上げて求めるものでは無かろう。
:………そうだな、悟りか。
八雲紫 :禅の本質よねぇ〜、證道歌。禅よZEN、ZEN!!
上白沢慧音 :―――――。なんだそりゃ?
:………そう、「江月照松風吹 永夜清宵何所為」は證道歌の第百三、百四句だな。唐の永嘉大師の作った詩(一巻)の一部に当たる。永嘉大師玄覚は曹洞宗開祖の慧能の弟子、證道歌は禅の本旨を詩の形で説いたもので、七言の百六十六句で構成されている。禅宗ではこれを尊重し、朝夕提唱したと言うな。
:中でもこの二句は有名だろう。『雨月物語』の「青頭巾」にあるし、謡曲の「弱法師」中にも見えるな。
八雲紫 :んー、「なに疑ひも難波江に、江月照らし松風吹く。永夜のしようせい何のなすところや」ね。この永き夜は何の為?
上白沢慧音 :禅の本旨、如何に仏道を見極めるのか。この句にはその契機が込められている。
:入江(川の水とも解釈できるがな)を秋の澄んだ月の光が明らかに照らし、爽やかな音を立てて風が松の木を吹き抜けてゆく。この永い夜、清浄なる辺りの景色はいったい何の為に存在しているのか。この句はこう問いかける。
:だが、「何故」と問いかけはしても、それに答えはない。むしろ何の為でもなく、唯天然自然にそうあるのだということに気付く事が大切なのだろう。
:人為な解釈を棄て、あるがままの自然へと帰る。そう、この句は美しい自然の風物を述べる事により、狭い自己に囚われず、無我無心の境地へと導くためのものなのだ。
:そう言えば、四部録抄には「註ニ云フ勝解ヲ作ル莫レ、是レ真境界也」とあるな。
八雲紫 :ふふふ。自然ねえ。
:生物の一種として大自然の一部でありながら、ひたすらそれを否定し、そこから離れようとした人間が、その矛盾と格闘した痕なのかしら?哀しいものね。
上白沢慧音 :決して逃れられぬ生物としての死。人間の内なる自然は常に死を人間に突きつける。人間はその不安と戦い、何とかしてそれを乗り越えようとしてきた訳だな。人の文化の発展とは、この生物的な死を克服しようとすることで生まれたものだったのかもしれないな。………これは時間なる概念を持ってしまった知性の定めなのだろうな。
:地獄も極楽も、いや神も宗教も、この人が決して越えられない境界への不安から生み出されたものだ。仏教、そう禅宗もその例に漏れない。まあ、禅宗は絶対者に依らず、世界の認識法を相対化してゆくという点でやや特異なのかもしれないが。
:ふっ、こんな事はそなたにはまさに釈迦に念仏だったな。
:………それにな、『雨月物語』にあるが、これは己が妄執によって“人ならざるモノ”に変貌してしまった人間を救った言葉でもあるのだ。だから………。
八雲紫 :………なるほどね。
:彼善果に基づきて遷化せしとならば、道に先達の師とも云うべし。又活きてあるときは我ために一個(ひとり)の徒弟なり、か。
:――――――――。私達のような妖怪は、本来概念的な存在だし、そもそもが種々の関係性から生じる両義性を帯びているわ。彼岸と此岸との境界が、私達にとっては絶対ではないの。
:でもね、人間達が求めるものも少しは分かる気がするわ。そう、恐怖や不安が私達に近しい存在だからかもしれないわね。
上白沢慧音 :救いに悟り、か。
:所詮はより良く“生きる”ための方便に過ぎないかもしれないがな。
八雲紫 :救うも救われるもその人間の心次第。思いの持つ力は大きいわ。そう、私達が思っている以上にね。
上白沢慧音 :――――――――――。
:ただな、私は迷っているのだ。人間はその思いによって、本当に良き生を得る事が出来るのか、と。本当に我執を捨て、涅槃へと至る事はできるのか、とね。もしかすると悟りを求める事が、逆に執着を呼んでいるのではないかと。
:私は思うのだ、死の淵まで證道句を唱え続け、あるいは骸骨となってさえ法華経を唱える。この“悟りを求めるこ心”こそが最も強い妄執なのではないかと。
八雲紫 :あー。あなた本当に、お堅いわねぇ。そんなことでは未来永劫悟りの境地には至れないわよ。悟りどころか、安息さえも得られないんじゃなくて?
:考えすぎなのよ。生きているのだもの、何かの思いを持っているのが当たり前。螢や雀だって、餌が欲しい、とか、死にたくない、とか生存への強い“思い”を持っているし、知性を持つものならば当然でしょ。何の思いも持たないモノは、生きていないも同じではないかしら?
:より良く生きたいなら、しっかりと自らの存在を見つめる事が必要。無為自然も自己の相対化も、解脱も涅槃も、こうして自分自身をしっかりと認識してこそのもの。そして思いこそが己が存在の証に他ならないわ。
:禅宗だって、悟って終わりじゃあないでしょ。大悟即死な訳ではないのだから。悟後の修行が大事なの。悟りなんて、多分求め続ける事にこそ意味があるのだわ。
上白沢慧音 :………。
八雲紫 :………だからね。やはり「青頭巾」のアレは救われたのよ。
上白沢慧音 :そうだな。何かを思って生きて、………総てはそれをありのままに認めることから始まるのだな。
:罪深き人間達も……。
八雲紫 :業を背負う妖怪達も……。
上白沢慧音 :こうして共に生きているのだからな。
八雲紫 :そうね。
:ほら、今夜も月は美しい。
:地上も冥界も、人も妖怪も関係なく………。




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