○平成20年5月
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鬼と女とは人に見えぬぞよき
「虫めづる姫君」『堤中納言物語』
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上白沢慧音 | 魂魄妖夢 |
魂魄妖夢 | :……………。 :ええと、上白沢さん………? |
上白沢慧音 | :何用かな、白玉楼の剣術師範よ。 :……おっと、私にはそなたたちの遊びに付き合う気は無いぞ。 |
魂魄妖夢 | :ええと、今日は主の言い付けで来た訳ではないのです。私個人の意思でお伺い致しました。 |
上白沢慧音 | :ふむ。 :―――――そうだろうな、貴奴等……私が動く事など考えてもおるまい。 |
魂魄妖夢 | :あ、でも……。 :そうだ! もしかして貴女は、例の時に何が起こったのかを知っているのではないですか? |
上白沢慧音 | :ん、うん? ――そうか、そなたは何も聞いていないのか……。 :――ううむ、そうだな。そなたはこれからもずっと白玉楼の主と共に歩むつもりなのだろう? ならば知らぬ方がよい。事実には、自ら気付かねば意味がないものもあるのだ。 |
魂魄妖夢 | :そ、そうですか。……………。 :あ、ええと、私が聞きたかったのは、その、言葉に、表に現れた以上の意味を読み取るにはどうすれば良いのかということです。 |
上白沢慧音 | :??? |
魂魄妖夢 | :ええっと、つまり、紫さまの依頼や幽々子さまの言葉を聞いても、私にはその意味も、意図もさっぱりわからないのです。私には言外の事を理解する能力が足りないのでしょうか。 :このままでは、私は何のために動いているのか……。あ、勿論幽々子さまの思惑を疑っている訳ではないんです。何も分からないままでは、もしかすると知らず知らずのうちに幽々子さまの意図に反することをしてしまうのではないかと気が気ではなくて。 |
上白沢慧音 | :うーん。そうは言ってもなあ。亡霊嬢の言葉や、スキマ妖怪の依頼とやらを正確に“そなたの口から”語って貰わねば、答えられんなあ。 |
魂魄妖夢 | :………それは。 |
上白沢慧音 | :まあ良い。そんなことが出来れば最初からそうしているだろうしな。 |
魂魄妖夢 | :す、すみません。 |
上白沢慧音 | :……………。そうだな。 そなた、「鬼と女とは人に見えぬぞよき」という言葉を知っているかな? |
魂魄妖夢 | :え? :さあ、どこかで聞いたことがあるような気もするのですが。 |
上白沢慧音 | :『堤中納言物語』の中の、「虫めづる姫君」に登場する言葉だ。 |
魂魄妖夢 | :あ!その作品は知っています。 :十編から成る物語ですよね。そのうちの一篇が平安後期に成立したことが分かっているだけで、成立時期は良く分かっていないのですよね。 |
上白沢慧音 | :その通り。「花桜折る少将」、「虫めづる姫君」、「ほどほどの懸想」、「逢坂超えぬ権中納言」、「貝合」、「思はぬ方にとまりする少将」、「はなだの女御」、「灰墨」、「よしなしごと」の十編だな。作者も天喜三年(西暦1055年)頃成立の「逢坂超えぬ権中納言」が小式部というのが分かっているだけだ。まあ、そもそもこの小式部でさえ、誰のことなのか定説が無いのだが。 :おそらく平安後期から鎌倉時代にかけて、異なる作者によって独立に書かれた物語がまとめられたものなのだろう。「堤中納言」という表題の由来も編者も分からない。様々な説はあるが、何れも憶測の域を出ないな。 |
魂魄妖夢 | :『堤中納言物語』の各編には、批判や風刺が込められ、また耽美的で奇抜な着想による物語とされていたはずですよね。洗練された近代短編小説に似た性質をもっているとか。 :理知的で鋭い感覚を持った作品群で、古典の中でも特異な性格のものだそうですね。 |
上白沢慧音 | :ふむ。文学史的な知識はあるのだな。 |
魂魄妖夢 | :これでも白玉楼の住人です。文学史の素養は一通り……。 |
上白沢慧音 | :まあ、年代や歴史的価値の丸暗記では意味がないのだが……。 :とまれ、「虫めづる姫君」はその中の一篇だ。虫を好んで飼うなど、変わった性癖を持つ姫君が主人公だが、その近代的とも言える合理的な主張は非常に興味深いものだ。私は彼女の考え方に非常に親近感を覚えるね。まあ、分析的に見れば、『十訓抄』などに記された、蜂飼の大臣と称された京極太政大臣藤原宗輔の行状にヒントを得た物語と言えるのかもしれないな。 :眉も抜かず、お歯黒も付けぬ彼女の姿なら、今の世に在っても違和感はないだろう。 |
魂魄妖夢 | :そ、それはそうなんですが(……ぐっすん)。 |
上白沢慧音 | ::……それはさておき、この「鬼と女とは人に見えぬぞよき」も姫の言葉だ。当時流行った警句であるとの見方もあるな。この言葉について、そなたはどう思う? |
魂魄妖夢 | :あ、あのぁ、恐ろしい鬼には出会わない方がよいという意味ではないのですか? |
上白沢慧音 | :……………。うーん。はぁー。 |
魂魄妖夢 | :(うわぁ。先生が凄い頑張ってるけど、どーしても駄目な子を見る目だ……) |
上白沢慧音 | :これはそういう事を言っているのではないのだ。そうだな、ここには「女」ともあるだろう。これは別に透明人間のような女性が良いと言っているのでは無いと言うことは分かるな? |
魂魄妖夢 | :はい。 :隠されているからこそ思いは募る。見えねば心の中であれこれと想像を巡らすことも出来る。ありのままを曝してしまうより、目に前に現れぬ方が良いというのはよく分かります。 :……でも、私は現物と想像していたものと落差があるのは嫌なので、出来れば実際に見てしまいたいです。 :それに、想像される虚像はあくまでも己の意識の投影に過ぎません。ですから、それは単なる自己欺瞞ではないのですか? |
上白沢慧音 | :ふむ。大切なことは目に見えない場合もあるのだがな。 :実際に見たからといって理解できるとは限らぬ。我々の目を、認知能力を過信するのは感心しないな。自分の目で見たものしか信じないと言うことは、「何か」見てしまったら直ぐに信念が揺らいでしまうと言うことの裏返しでしかないのだから。 |
魂魄妖夢 | :私は目の前の真実は斬れば分かると………。 |
上白沢慧音 | :うーん。目に見えぬ対象とは別に“現実の存在”はある、そしてそれは無粋な物かもしれぬ。それでもなお「目に見えぬぞよき」と言うのが濃やかな心情というものなのだが。 :……………。やはりそなたにはまだ雨月を愛でるのは無理なのかな。 |
魂魄妖夢 | :むー。 :と、兎に角、それでは鬼も隠れていて見えない方がより強く恐ろしく感じるということなのですか? |
上白沢慧音 | :ま、まぁそう、かもしれぬが。 :―――――。 :かつて「心の鬼」という言葉があった。普通は疑心暗鬼の意と解釈されているが、おそらくはもっと深い人の心の機微のようなものを表す言葉だったと私は思っている。 :ここでの“鬼”にもそんな含意があると思う。 |
魂魄妖夢 | :すると、鬼とは人の心そのものというわけですか? |
上白沢慧音 | :そう、瞋恚、嫉妬、恋慕……、我等は心の裡に様々な強い情念を持っている。それは時に荒れ狂い、己の制御が不可能になることもある。こうした強い思い、悪意、執着、絶望……、それこそが“鬼”なのだよ。鬼は我等の心の中に住まうものだ。 |
魂魄妖夢 | :では、「人に見えぬぞよき」という鬼とは――。 |
上白沢慧音 | :そう、我等の心に棲まう鬼のことだろう。我等は常にこの鬼を飼い慣らし、外に暴れ出さぬようにしている。意識的かそうでないかは別としてな。 :それが上手く行けば芸術活動になる。過去現在の優れた芸術作品というのは、皆そうした強い情念を見事に昇華させたものだと言うことも出来よう。……時にはその身を滅ぼしてしまうモノでもあるのだが。 |
魂魄妖夢 | :芸術……、心……。すると山の神さまの言う所の信仰も、そのためなのでしょうか。 |
上白沢慧音 | :そうだな。あらゆる精神活動がそのための行為だと言ってしまっても良いかも知れぬ。 :そしてこれは相手の存在を“理解する”ことにも深く関わることだ。 :我等は自分以外の存在の気持ちをそのままに理解すること出来ない。唯出来るのは自分の気持ちから類推することだけだ。だからこそ“心の鬼”が自らの心の中にもあることが分かっていることが大切なのだ。相手の中の“鬼”を想定するからこそ、相手を慮る気持ちも生じる。自分を大切に思うのと同じように相手の事も大切に思うことが出来るのだ。 :相手を恐れ、敬い、愛する、そんなことも我等の心に“鬼”が潜んでいるからなのだよ。そしてだからこそ、鬼は目に見えぬ方が良いのだ。相手の“心の鬼”が見えぬからこそ自分に照らして相手を思いやる気持ちが生まれるのだ。我等の心の中身が総て顕わに見えたとしたら、この世界は殺伐としたものとなるだろう。剥き出しの感情が良き人間関係を紡ぎ出せるとは思えぬ。 :逆説的だが、相手の気持ちが理解できないことによって、我等は互いを分かり合っているのだ。 |
魂魄妖夢 | :で、でも、心など元々見えないのではないですか? :だったらこの箴言は当然なことを言っているだけで……、意味はあるのですか? |
上白沢慧音 | :ふぅ……。だからこその、人に見えぬぞ良き、なのだ。 :そなたはこれから様々な経験を積むだろう。悲しい出来事、楽しい出来事、出会いと別れ、そして……。そのような経験を重ねることによって、何時の日かそなたにも分かるようになるだろう。“隠された”ものの価値にな。 :この世界は目に見えるものだけで出来ているのではない。否、むしろ大切なものこそ目に見えぬのかもしれない。そう、だから「人に見えぬぞよき」なのだよ。 |
魂魄妖夢 | :何時の日にか……ですか。 |
上白沢慧音 | :―――――。 :そう……。……だが、それは物事の裏側の存在を意識することでもあのだ。 :……だから、本当は分からないでいられる方が幸せかも知れぬが、な。 |
※ |
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魂魄妖夢 | :あ、そう言えば伊吹萃香さんも実際の所、私には見えなかったんですけど、やっぱりあれは良い鬼だったんでしょうか? |
上白沢慧音 | :だーかーらー。そういう事じゃ無いって言ってるのに!! |
参考文献
・松尾聰/寺本直彦校注『落窪物語 堤中納言物語』(『日本古典文学大系13』岩波書店1957)
・夢枕獏「むしめづる姫」(『陰陽師 龍笛ノ巻』文藝春秋社2002)