今月の御言葉

○平成20年7月

慧音先生 司馬遷『史記』より


  天道是か非か

   
(天道是邪非邪)

  
   司馬遷『史記』(伯夷列伝)より


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上白沢慧音 比那名居天子


上白沢慧音 :さて、今月はいつもと趣向が違う。先に言葉の説明をさせて貰う。……会話部分との整合性が取れなかったのでな。
:……要は前半だけ読めば充分と言うことでもある訳だ。
:―――――。
:今月の言葉は「天道是か非か」。司馬遷の『史記』に登場する有名な一節だ。
:この言葉は『史記』の列伝の冒頭、伯夷列伝にある。武力による殷周革命を認めず、周に仕えることを拒んで餓死したという、伯夷・叔齊の伝記を記した部分だ。
:この伯夷列伝は単なる一伝記では無い。『史記』列伝は全部で70編あるのだが、その総序としての性格を持っているのだ。
:人間社会を、歴史をその絶対的価値観を以て裁断する“天”、司馬遷はそれに対する疑問を公然と表明したのだ。窮乏の中で死んだ伯夷・叔齊は己の仁を貫き、誰を恨むこともなかったと伝えられる。しかし、と司馬遷は言う。伯夷が詠んだという詩「以暴易暴兮、不知其非矣……(暴を以て暴に易(か)へ、其の非を知らず……)」を見れば、そんな事は言えないのではないか、と。
:彼は言う「余悲伯夷之意(余、伯夷の意を悲しむ)」と。天は善を助け悪を挫くと言うけれど、現実を見てみれば違っているではないか。伯夷・叔齊は窮死し、人物優れた顔回の短い生涯は満たされることはなかった。それに対し、『荘子』に登場する非道な大盗賊盗跖(とうせき)は安逸にその生涯を全うしている。この現実は何なのか。「余甚惑焉、儻所謂天道是邪非邪(余甚だ惑う、儻(ある)いは所謂天道は是か非か)」。
:(私ははなはだ当惑してしまう。天道というものは、本当に正しいものなのだろうか。ことによると間違っているのではないか)。司馬遷は疑問形で書いてはいるが、おそらく彼の本心は“天道は非なり”であったろう。
:この疑問が、憤りが、彼を『史記』の執筆に向かわせたのだろう。事によると、正しい主張をしたが為に、理不尽な罰を受けた己の境遇と重なるものがあったのかも知れぬ。
:だが、彼はこの天の矛盾をただ嘆いていたのではない。そう、彼はそれを積極的に克服しようとしたのだ。彼は歴史家が過去の優れた人物たちをきちんと評価し、後世に残すことで“天の理不尽さ”を恢復できると考えた。この強烈とも言える自負があったればこそ、不朽の歴史書『史記』が生まれたとも言えよう。
:では、蛇足の会話部分を始めるとしよう。


少女祈祷中………


顛倒夢想
 −STAGE FINAL-


上白沢慧音 :出てきな! 謫仙人……、否、不良天人よ。

:天地は不仁

:万物を以て芻狗と為す


:おや、野蛮な半獣が場違いじゃなくて?
上白沢慧音 :愚か者め! 天人は余りに長く己が世界に閉じこもり、古き聖獣も忘れたか。
比那名居天子 :地上に這い蹲る半獣如きが何を偉そうに。
:大体あなたは何しに来たのかしら?
:ふらふら訪れた連中は私が負けてやったら満足してたみたいだし……、もう巫女も来ちゃったしねぇ。“例の”神社だって私の力で再建した所よ!
上白沢慧音 :そのような事は百も承知。……神社の再建?
:……ふん、“お前の”神社に注意するが良い! この件はまだ終わってはいない。
比那名居天子 :???。
:何の事かしら? 巫女は異変を“解決”したし、みんなだって退屈が紛れたでしょ。
:めでたしめでたし、じゃないの。
上白沢慧音 :―――――。
:天下の怨みを樹つる者は、惟だ其れ己を重じて人を軽んずるのみ。
:連中の意図など私にはどうでも良い。……唯一つ、聴きたいことがある。
比那名居天子 :え?
上白沢慧音 :もし巫女が動かなかったら、いや、此処へ来るのが遅れたら、“本番”を行う積もりだったのか?
比那名居天子 :勿論よ。だって、異変として認めて貰わなくちゃいけないじゃないの。
:ま、この私の剣であのまま気質を集めてゆけば、暫くすれば必然的に悲劇的な大地震が起きた訳だけど……。
上白沢慧音 :そうか……。
:お前達にとっては取るに足らない存在かも知れないがな……、地上のあらゆるものも又生きているのだ。木々も動物も、人間も、な。
:お前の退屈しのぎなどの為に、数多の生命を危険に晒すなど、言語道断。許す訳にはいかぬ。
比那名居天子 :はぁ?
:天道は疑わず、其の命を弐にせず。我が行いは、即ち無謬の天の意思。
:地上の民は、唯それに従えば良い。
上白沢慧音 :天は頗覆せず、地は偏載せず。
:お前の行いこそ天道に逆らうことに他ならぬ。
比那名居天子 :下らない。下らない……。
:そんなことは、些末なことだわ。
:―――――。
:毎日毎日、毎日毎日毎日毎日……。歌に踊り? 下らないわ。
:物心付くか付かないかの内に勝手に連れてこられ、名前も変えさせられた。
:……こんなもの、こんな世界は私の望んだものじゃない!!!
:此処は美しき牢獄よ……。
:執着や欲望を捨てたですって? そんなのは人じゃない! 唯人の姿をしているだけの抜け殻、生ける屍だわ。
:何年も何年も……、何十年も何百年も。そんな繰り返しがどんなものか、あんた達には分かりはしないわ!!
上白沢慧音 :与えられた幸福さえ生かせぬのは、己の無能の表明に過ぎぬ。
:怨みを抱き自らの境遇を嘆きつつも、その地位に安住し、変革を求めることもない。
:他人の力を借りねば、外の世界へ働きかけることもできぬ。一人では何もできぬ臆病者め!
:天人としての地位も能力も、緋想の剣も、皆他者から与えられたものではないか!!
比那名居天子 :!
:こ、この力は、私のものだぁああ!!
:げ、下賤な貴様等などに、何が分かる!!!
:私は非想摩尼の天の住人、比那名居の天子。この天界も、地上の世界も、皆私の掌の上! これまでずっと、死神も五衰さえも退けてきた。
:私は私の生きたいように生きる!
上白沢慧音 :……私は今、先人達の疑問にはっきりと答えることができる。天道是か非か、――天道非也! 天、必すべきか、――否!と。
:他者の悲しみや苦しみ、屍の上に自由も快楽も有りはしない。
:天上と雖も所詮流転の此岸にあるもの、永遠に五衰を避ける事はできぬ。
:そして今、お前が如何に大きな幸福の中に生きているか、失った時に分かるだろう。何時の日か、お前も眷属、天女に草の如く棄てられよう。非想も阿鼻を免れず。当に知るべし、天上もまた楽(ねが)うべからざることを。
:思うが良い! その苦は地獄よりも甚だしきことを。
比那名居天子 :天に順う者は存し、天に逆らう者は亡ぶ。
:あんたに私は倒せない。
上白沢慧音 :貴は驕と期せずして驕自から来たり。驕は亡と期せずして亡自から至る……。
:何時か必ず来るその時に臨んで、今この時がかけがえのない幸福な時間であったことを噛みしめるが良い!

決闘準備

BORDER OF DUEL


開始
START


*****


決着
KNOCK OUT


*****



:夏を迎えた人間の里。

:博麗神社の事件は、里では全く話題にならなかった。そもそも、何かあったことを知る者が、ほんの僅かしか居なかったのだ。

:だが、慧音は思う。天人や鬼がうろちょろしていることが知られなかったのは、却って良かったのではないか、と。

稗田阿求 :では、結局この度の“異変”は、何でもなかったということなのですか?
:神社の倒壊も、局所的な異常な天気も、単なる天人の気まぐれだったと。
上白沢慧音 :ま、そういう事だな。最初から解決されるべくして起こされたものだった訳だから。
:神社の倒壊まで“何でもなかった”と言ってしまうと、当事者の巫女にはちょっと可哀想だがな。
稗田阿求 :有名税みたいなものでしょ。
:うーん。それにしても、貴女の話を聞いたら、また幻想郷縁起を改訂しなければいけないようですね。
:何というか、……少なくとも“欲を捨てた”人間ではないですね。本当に天人だったんですか? ……そうですか。字義通り、未だ非非想でもあるという訳なんでしょうね。それに、天人は輪廻を外れた者達だと思っていたのですが、死に神が訪れることもあるのですねぇ。
上白沢慧音 :天界に住んでいたし、要石を操り、緋想の剣を使っていたから間違いはない。
:輪廻については、お迎えの死神を撃退すれば大丈夫、ってことだったからな。逆に言えば死神に敗れれば天界でも死ぬという事なのだろう。

:慧音は思う。
:天人であっても、“本当に大切なもの”は喪くしてしまわないと気が付かないものなのだろうか。


稗田阿求 :今回はかなり完成度が高かったと思っていたのに。……ああ、でもまだまだ改訂の余地があると言うことは、もう少し長く此岸に留まることができるという事なのかしら。
:……………。
:そうそう、龍とかには会ったりしませんでしたか?
上白沢慧音 :いや、流石に。……ああ、竜宮の使いには会ったけれどね。
:でも、要石が差されて地震も暫くは無いだろうし、再び会うのは難しいかも知れない。
稗田阿求 :それは残念ですね。
:そう言えば神社に要石が差されたのでしたね。これでこの幻想郷は安定するのでしょうか。私は何だかちょっぴり不安なのですけど。
上白沢慧音 :ああ、私もだ。

:要石で地震を押さえるということは、大地の力を無理矢理封じ込める事に他ならない。喩え要石が天の力であっても、それが不自然であることに変わりはない。当面の安定と引き換えに、実はもっと巨大な不安定要素を抱え込んでしまったのかも知れない。

:それに、こうして地震が無いことは、本当に良いことなのだろうか? 地震とは破壊の力であると共に、古き世界を更新して新たな世界を創造する力でもあった。そして驕れる者に対する天譴の役割も担っていたのだ。それらは今、本当に必要ないものなのか。

:そこで慧音は考えるのを止めた。……本当の“天”とは、そうしたあらゆるものの思惑を超えた所にあるのだろう。だから、それをどうこうしようなどと言うのは、おこがましいことだ。

:人事を尽くして天命を待つ。……私たちは、幻想郷のために自分たちができることを精一杯やれば良い。

:それはきっと“天”まで届くに違いない。

:夏の晴れ渡った空を見上げ、慧音はそう思った。




参考文献
 ・司馬遷『史記(八)』列伝(一)(水沢利忠『新漢文大系88』明治書院1990)
 ・源信『往生要集』岩波文庫1992
 ・岩本裕『日本仏教語辞典』平凡社1988

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