今月の御言葉

○平成21年3月

慧音先生 空海の言葉


  君見ずや君見ずや、京城(けいせい)の御苑(ぎよゑん)の桃李の紅なるを。
  灼灼芬芬(しやくしやくふんぷん)として顔色(がんしよく)同じ。
  一たびは雨に開け、一たびは風に散ず。
  上に飄(ひるがへ)り下に飄って園中に落つ。
  春の女群り来たつて一つの手に折る。
  春の鶯翔(かけ)り集つて啄(ついば)むで空に飛ぶ。

              弘法大師空海「山に入る興」(『性霊集』巻一第六)


    君不見々々々。
    京城御苑桃李紅。
    灼々芬々願色同。
    一開雨一散風。
    飄上飄下落園中。
    春女群來一手折。
    春鶯翔集啄飛空。

        弘法大師空海「入山興」『遍照發揮性靈集』

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上白沢慧音 藤原妹紅


??? :「君見ずや君見ずや、京城(けいせい)の御苑(ぎょえん)の桃李の紅なるを」
:「灼灼芬芬(しゃくしゃくふんぷん)として顔色(がんしょく)同じ。一たびは雨に開け、一たびは風に散ず」
:「上に飄(ひるがえ)り下に飄って園中に落つ」
:―――やあ。
上白沢慧音 :ん? 元気だったか?
:そうか、もう桃の花の季節か。早いものだな。
藤原妹紅 :ああ。たとえ時去り人は移ろうとも、この美しさは変わらない。
:冬が過ぎ行き、新たな命の萌え出づる季節は良いものだ。
上白沢慧音 :「春の女群り来たって一つの手に折る」
:「春の鶯翔(かけ)り集って啄(ついば)んで空に飛ぶ」
:……これは単に世界の美しさを謳っている訳ではないぞ。彼の文は更に続くのだ。
:「君見ずや君見ずや、王城の城の裏の神泉の水を。一たびは沸き、一たびは流れて速かなること相似たり」
:「前には沸き後(しりえ)には流れて幾許(いくばかり)の千ぞ。流れ之(ゆ)き流れ之いて深淵に入る。深淵に入って転転として去むぬ」
:「何れの日何れの時にか更に竭(つ)きむ」
藤原妹紅 :ふふ、分かっているさ。
:「誰か能く万年の春を保ち得たる。貴(たっと)き人も賤しき人も惣(す)べて死し去る」
:「死し去り死し去っては灰塵となる。歌堂舞閣は野狐(やこ)の里。夢の如く泡の如し」
:……「電影の賓(ひん)」
上白沢慧音 :そう。これは弘法大師空海(西暦774−835年)の言葉だったか……。
藤原妹紅 :―――――。
上白沢慧音 :ふ……。まあ良い。
:これは空海の詩文集、『性霊集(せいれいしゅう/しょうりょうしゅう)』、正しくは『遍照発揮性霊集(へんじょうはっきせいれいしゅう)』に収められたものだ。実際には漢文で記されている。
:十巻本で、空海の文章が、31歳の時唐の福州で記した延暦二十三年(西暦804年)の文章から承和元年(西暦834年)61歳の時の奏状まで、百十三篇収められている。まあ、本文を欠いたりするものがあるので実質は百八篇となる訳だが。
:『性霊集』は、まず空海の弟子の紀ノ僧正真済(しんぜい)(西暦800−860年)が編纂し、その後散佚した三巻分を済暹(さいせん)(西暦1025−1115年)が改めて収集し、全十巻に復したものだな。これらは基本的に四六駢儷体を駆使した見事な漢文で記されている。詩文だけでなく、上奏文や願文、碑銘、書簡など多様なものが含まれている。
:空海の人となりばかりでなく、当時の文化や国際状況などをうかがうこともできる、貴重な資料と言えよう。
:そして、これは確か……
藤原妹紅 :第一巻の第六。
上白沢慧音 :そう、第一巻は詩賦を主に集めた巻だ。かの句は「山に入る興」(「入山興」)という題の文章の一部で、「君不見(君見ずや)」の用法は漢詩の楽府の体裁に倣ったものらしい。ただし、制作年は良く分かっていない。
:「山」は高野山を指す。全体は参議良相公こと桓武天皇の皇子、良峯安世(よしみねのやすよ)の問いに答える形になっている。
:都の春は美しい、そうした景色を謳いながら、それと不可分な無常観をも表している。空海が呼びかけているのは形式上は良相公だが、広く衆生に呼びかけているととらえて構わないだろう。
:移ろう自然の美しさと儚さを見事に表現していると言えよう。
藤原妹紅 :移ろいゆく季節か……。
:「風葉に因縁を知る、輪廻幾ばくの年にか覚る」
:……これらのものは、儚いから美しいのか?
:―――――。
:否、そうではないはずだ。そうだよな、慧音。……あの空海の言葉だものな。
上白沢慧音 :そうだな。これは厭世的な価値観、後ろ向き、虚無的なそれとは異なるものだろう。
藤原妹紅 :くくっ。あれに厭世は似合わないよ。何というか、過剰な奴だった。
:知識も語学能力も芸術的才能も宗教的情熱も、そして野心でさえも。
上白沢慧音 :彼が言いたかったことは、おそらく、生きている姿そのものがそのままで美しい、ということだろう。
:この世にあるものは全て移ろいゆく、それに執着し囚われることなく、ありのままに受け止める。そうしたことだろうな。
藤原妹紅 :そうだね。永遠なるものは存在しない。だが、それは決して悲しむべきことではない。
:きっと、今を懸命に生きることこそが価値あることなんだ。
:……でも。今でも時々私は考えてしまうんだ。
:死の無い私には生もないのではと。永遠ならざる此岸で、終わり無く存在し続ける私は何なんだろうかと。
上白沢慧音 :―――――。
:生命の価値は、その長さではない。数日しか生きられない蜉蝣(かげろう)といえども、何十年と生きる人間に比べて命の質が劣っている訳では決してない。
:同じように、長いからといってその価値が失われる訳でもない。
:我等此岸に生きる者にとって、実在するのは今この時のみ。今を懸命に生きる者の持つ輝きに差などない。
藤原妹紅 :ふっ。相変わらず甘いなぁ。でも、ありがとう。
:ああ、この世界は良い。生きているのが素晴らしいと思えるのだから。
:私に……、かつて瞋恚(しんい)の炎に焼かれるばかりだった私に、この世界がこんなにも美しいことに気付かせてくれたのだ。変わらぬ価値をね。
:「山鳥時(ときどき)に来たって歌一たび奏す。山猿軽く跳(おど)って伎(ぎ)、倫(ともがら)に絶えたり。春の花、秋の菊、咲(わら)って我に向えり。暁の月、朝(あした)の風、精塵を洗う」ってね。
上白沢慧音 :外の世界では失われてしまったものが、ここには今でも存在しているからな。
藤原妹紅 :それだけではない。この幻想郷は、かけがえのない今この時の大切さも一緒に教えてくれたんだ。
:勿論、こうして「生きる」ことは、決して良いことばっかりだったとは言えないけど……。
上白沢慧音 :そう、「生きる」ことは悲しみや苦しみを伴うかも知れない。否、必然的に伴うものだろう。でも。
:それでこそ生きているということなんだ。
藤原妹紅 :うん、だから……。
上白沢慧音 :??
藤原妹紅 :いや、何でもない。
:大丈夫。今、私は幸せだよ。




参考文献
 ・渡邊照宏,宮坂宥校注『三教指歸 性靈集』(『日本古典文学大系71』岩波書店1965)


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