建築探偵  神域流浪 (参)


 建築探偵、今回の対象は東方文花帖のレベル9(八意永琳&蓬莱山輝夜)の場面6に登場するスペルカード、新難題「金閣寺の一枚天井」です。
 これは蓬莱山輝夜の3枚目のスペルカードで、四つの新難題のうちの一つ。一列に連なる金色の弾幕が次々と降りてきます(図1)。
 この「一枚天井」とはいったい何なのか?本当に実在したのか?が今回のテーマです。



新難題「金閣寺の一枚天井」
図1 東方文花帖9−6
新難題「金閣寺の一枚天井」
 まず、金閣(鹿苑寺、通称金閣寺に建つ建物)そのものについては、非常に有名な建物であるので、ここでは簡単に触れることとします。
 鹿苑寺金閣は、足利義満が京都北山に営んだ山荘、北山殿の中の一棟として建てられました。北山殿は義満の死後寺院となり、鹿苑寺として現在に至ります。
 北山の地は、元々鎌倉時代に栄えた西園寺家の別荘北山第のあった地であり、後に義満のものとなりました。北山文化の中心として寝殿、泉殿など数多くの殿舎が存在しましたが、義満の死後移築されたり、焼亡したりして、後世まで残ったのは舎利殿、即ち金閣のみでした(応仁の乱の時には金閣の軒にまで火がついたと伝えられています)。
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 金閣は、建設当時極めて珍しい三階建ての建築であり、室町期の貴重な遺構ということで国宝に指定されていましたが、1950年(昭和25年)放火により焼失してしまいました。
 金閣は仏舎利を収める舎利殿として応永五年(西暦1398年)に完成しました。初層は住宅風、二層は和風仏堂風、三層は禅宗様仏堂風のデザインとなっています。現在各層には名称が付けられていますが、当初からのものかどうかには疑問があります。現在二層三層の内外が金箔押しになっています。
 この建物は舎利殿としての機能ばかりでなく、庭園の眺望を楽しむという遊興や社交のため場という役割も担っていたと思われます。また、庭園と一体となり、その景観を高め整える性格も持っています。
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 現在の金閣は1955年(昭和30年)に再建されたものです(図2)。
 これは、主に明治時代に行われた解体修理の際に作られた資料と写真を元に行われました。いくつかの変更点(後補と考えられる部材を除くなど)があり、焼失前(あるいは明治修理以前)の写真と比較すると変わった部分も随分あります。
 特に、現在の姿を見慣れている我々には想像し難いのですが、焼失前の金閣では、金箔は第三層のみに施されていました。再建時に、花生けに加工されていた一片の二層目の部材に金箔の痕跡があったことから、二層目にも金箔が施されました。私見ですが、この証拠は弱い気がします。実際には二層目は漆のみで、金箔押しは三層のみだったのかもしれません。



金閣
図2 再建金閣(鹿苑寺)

 それでは本題の一枚天井について考えてみましょう。
 金閣の最上層の天井が樟の一枚天井であると言うことは、古来有名であったらしく、江戸時代(18世紀中頃)の人形浄瑠璃にも登場するそうです(これら一枚天井の物語については、こちらのサイトに詳しい記述があります)。

 明治の解体修理の後も、この“伝説”は消えていません。例えば1928年(昭和3年)刊行の『京都名勝誌』には、
 「天井は一枚の楠の板にて三間四方なり」(p.468)
と記されています。
 明治期の修理は、装飾画のあった部分や金箔張り部分については解体しておらず、全解体とは異なっていたようです。そのため、もしかすると第三層の天井については詳細な調査がされなかったのかもしれず、あるいそもそも詳細なデータが一般には公開されなかったのかも知れません。
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 さて、天井についての確かな記事は、金閣の焼失後に現れます。
 金閣の再建時に発行された建築史家村田治郎の『再建金閣』には、次の様に記されています。
  「天井は説明人が一枚板だと言っていたのが案外ひろく信じられているけれども、全くの誤りであって、
   多くの板をならべた鏡天井にすぎない」p.16
 また、雑誌『日本文化財』(No.6,1955年10月号)には、再建に関わった学者、技術者、鹿苑寺住持の座談会が掲載されていますが、そこで天井に触れられている部分があります。
  「赤松*1 三層の天井の樟の一枚板というのはどうですか。
   後藤*2 一枚板というのは、間違いで、板を何枚も使った鏡天井でした
     引用者註
        *1:赤松俊秀京都大学教授
        *2:後藤柴三郎京都府文化財保護課技師

なお、ここでは、再建当時の材木の入手の困難さにも触れられているのですが、そこで言及されているのは第一層の二本の梁であり、36尺(約11メートル)の長さの檜材でした。当然巨大な板についての言及はありません。
 これらの内容は、何れも金閣再建に深く関わった人物の手になるものなので、信憑性は高いと思われます。
 焼失といっても、全部が燃えてしまった訳ではなく、主要部材のかなりの部分は残っていたようです。天井についても確認することが可能だったと思われます(明治修理時に既に分かっていた可能性もありますが)。

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 結局、金閣寺の一枚天井とは、伝説であり、実際には存在しないものでした。いかにも“難題”にふさわしいものとも言えましょう。
 おそらく鏡天井(凹凸、格縁などがなく、平滑な天井。一枚の板でできているとは限らない)であり、金箔が施されていたことから言い出されたことなのでしょう。きらびやかな金閣を建てた義満ならば、という思いもあったのかもしれません。そして、芝居や案内書に取り上げられることによって広まっていったものと思われます。しばしば、“名物”が存在する方が人が呼べるため、寺院や京都にとっても都合が良かったのかも知れません。
 一方で、建築や美術史の専門家にとっては、鏡天井が一枚板か否かというような点は、ほとんど興味の対象外であったのでしょう。建築や美術に関する書籍では記述されないので、この“伝説”が曖昧なままで現在まで伝えられたのだと思われます。

 残念ながら金閣寺の一枚天井は、現実には存在しないものでした。文が「にわかには信じられません」と言っているのも当然です。
 でも、幻想のモノであるからこそ、もしかしたら幻想郷には存在しているのかもしれません。……そもそも幻想郷に金閣があれば、ですが。


参考文献
 ・鹿苑寺編『再建金閣』鹿苑寺1955(※文章は村田治郎)
 ・村田治郎/村上慈海他七名(司会関野克)「金閣の復旧をめぐって」(座談会)
    (文化財保護委員会監修『日本文化財』No.6,10月号,奉仕会出版部1955)
 ・関野克編『金閣と銀閣』(『日本の美術No.153』至文堂1979)
 ・京都市編『京都名勝誌』京都市1928
 ・日本建築学会『日本建築史図集』彰国社1980

Special Thanks
 ・東方備望録 (管理人:オーゴショ様)

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