蛇足の解説の巻    

目次
 1.音曲に関して
   i)催馬楽
   ii)今様
   iii)平曲
 2.平家物語に関して
   i)概要
   ii)壇ノ浦の場面
   iii)一ノ谷の場面
 3.おまけ絵


1.音曲に関して

i)催馬楽

 あの連中が竹林で最初に歌っていたのは次の歌です。
   「酒飲(さけをたうべて)」
     酒を飲べて 飲(た)べ醉(ゑ)うて
     たむとこりむぞ 参で来る
     よろぼひぞ 参で来る
     たんな たんな たりゝらゝ

 これは、催馬楽(さいばら)と呼ばれる宮廷歌謡の一つです。日本古来の歌謡を唐楽の拍子や旋
律に合わせて編曲したものです。歌詞はおよそ8世紀頃の成立とされます。歌詞の新旧を考えると、
7〜9世紀のものがあるそうです。楽としての成立は8世紀末か9世紀初めと考えられています。
 13世紀以降衰退し、応仁の乱以降は催馬楽は廃絶してしまいます。しかし、17世紀になって、古
い譜に基づいて復興され、現在でも七曲が演奏されています。


ii)今様
 師匠の歌は『梁塵秘抄』より引用しました。巻第二、雑の部に納められたものです。
   萬劫亀の背中をば、沖の波こそ洗ふらめ
    如何なる塵の積もりゐて、 蓬莱山と高からん

他に仏教への強い思いを歌った次のような歌(仏歌)が有名です。
 
  佛は常にいませども、現(うつゝ)ならぬぞあはれなる
    人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ

 『梁塵秘抄』は後白河院(1127-1192)が編纂した歌謡集です。11世紀から12世紀にかけて最盛
期を迎えていた当時の流行歌謡「今様」の詞章を集成したものです。現在は一部のみが現存します。
残存する五百六十六首の歌謡は独特なもので、民衆の日常や土俗的信仰などが素材となっています。
また、北原白秋を始め近代の歌人・文学者達の多くがこの歌謡に惹きつけられました。
 今様は平安時代末期に流行した歌謡です。今様とは「当世風」の意味で、古くからの催馬楽などに
対し、華美で今風の新興歌謡を意味しました。仏教賛歌や神事歌謡、民謡などが混じった内容を持ち
ます。傀儡子や遊女の芸能として代表的なものであったと言います。院政期には宮廷でももてはやさ
れ、宮廷でこれが行われたことが各種日記などに記されています。
 特に後白河院がこれを愛好し、『梁塵秘抄』を編んだことは有名です。その後、室町時代には芸能と
しての今様はほぼ消滅してしまいます。
 歌詞の文献としては『梁塵秘抄』が最もまとまったものとされます。
 今様は、和歌のような常套的な表現を超えた自由で素朴な表現を特徴とします。歌謡史においては、
催馬楽を承けて早歌や小歌に繋がるものとされます。
 なお、今様の伴奏は主に鼓が用いられ、笙や笛も用いられたといいます。で、永琳師匠が何で琵琶
を奏しているのかというと、まあ、元々流泉やら啄木といった通常の琵琶曲を奏でるつもりで外出した
ところ、妹紅達に出会ってしまったという設定なわけです。


iii)平曲
 平曲とは琵琶を伴奏として『平家物語』を語る芸能のことです。古来盲目の琵琶法師がこれを伝承し
ました。中世には「平家」、「平家琵琶」などと呼ばれ、近世中期以降「平曲」と称されるようになりまし
た。『徒然草』によれば、そもそも『平家物語』が成立する際に、作者信濃前司行長が盲目の琵琶法師
生仏(しようぶつ)をして語らせたと言います。鎌倉末から室町時代の記録には数多く平曲の記事が見
られ、流行していたことを窺わせます。例えば、15世紀の記録には京都に平曲を演奏する琵琶法師が
五、六百人居たと記されています。世の中への『平家物語』の浸透に大きな力を持っていたと考えられ
ています。
 現在その芸はほぼ途絶えていますが、譜本により復元は可能と言われています。
 琵琶法師のイメージは、小泉八雲の「耳なし芳一」(確か元伝説は「耳切れ団一」だったかと)を思って
頂ければ良いかと。
 語られている場面は当に壇ノ浦の平家滅亡のシーンです。是非袖を濡らして頂きたい(無理かな)。
 原文は次の『平家物語』についての部分に記載します。


2.『平家物語』に関して

i)概要

 全十二巻の戦記文学、作者は未詳です。十三世紀前半頃の成立とされています。早くから語り本・
読み本の両系統に分岐し、異本を数多く生じた。『源平盛衰記』四十八巻も異本の一つ。
 平安末から鎌倉時代にかけて、平家の栄枯盛衰を描きます。仏教的無常観を基本とし、格調高く調
子の良い和漢混淆文より構成されます。原本の成立、作者には諸説ありますが、信濃前司行長が作
者と伝えられます。成立年代は承久(1219-1222)から仁治(1240-1243)の間と言います。
 平曲として琵琶法師によって広められ、後世の能楽、謡曲、浄瑠璃などに大きな影響を与えました。
 冒頭の、
   祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
   沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。
   おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
は余りにも有名。

ii)壇ノ浦の場面
 『平家物語』にはいくつもの名場面がありますが、その白眉は壇ノ浦の合戦の場面でしょう。
 慧音さんが演奏した部分も平家滅亡、安徳天皇入水の場面です。以下に原文を引きます。
 色々と語らずとも、この文章だけで充分だと思います。

   「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかんとするぞ」
   と仰せければ、いとけなき君にむかいたてまつり、涙ををさへ申されけるは(中略)小さくうつくしき
  御手をあはせ、まづ東をふしふしをがみ、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西にむかはせ給
  ひて、御念佛ありしかば、二位殿やがて抱き奉り
   「浪のしたにも都のさぶらうぞ」
  となぐさめたてま(ッ)て、千尋の底へぞいり給ふ。
   悲哉(かなしきかな)、無常の春の風、忽に花の御すがたを散らし、なさけなきかな、分段のあらき
  浪、玉躰をしづめたてまつる。
   殿をば長生と名づけてながきすみかとさだめ、門をば不老と号して、老せぬとざし説きたれども、い
  まだ十歳のうちにして、底の水屑(みくづ)とならせ給ふ。
                                       「先帝身投」『平家物語』巻十一

ii)一ノ谷の場面
 この他に著名な部分を挙げるとすると、一ノ谷合戦の場面があります。
これは唱歌「青葉の笛」で有名ですね。
 ♪暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛
 ♪今際の際まで持ちし箙に 残れるは「花や今宵」の歌
などというものです。作詞は確か大和田建樹だったかな?

 青葉の笛は小枝とも伝えられる笛の名器で、平敦盛(1169-84)が所持していたものです。平敦盛は、
平清盛の甥にあたり、当年わずか15歳で戦場の露と消えました。彼を討った熊谷次郎直実が笛を見つ
け、前日平家の陣で聞いた笛の音に思いを馳せるのです。
 このエピソードは歌舞伎などに脚色され非常に有名となります。
 花や今宵というのは、歌人としても知られた平薩摩守忠度(1144-84)のエピソードです。彼は平清盛
の末弟で、正五位下薩摩守の位にありました。一ノ谷の合戦で岡部忠澄に討たれてしまいます。ところが、
最期まで持っていた箙(えびら)に短冊が差してあり、そこには次のような歌が記されていたと言います。
   行くれて 木の下かげをやどとせば 花やこよひのあるじならまし (「忠度最期」『平家物語』巻九)
最後まで歌人としての心を忘れなかったと言うことでしょうか。また、都落ちの際に、師である藤原俊成を
訪ね、暇乞いとともに歌集を託しました。俊成は源平の争乱の後、彼の歌を一首、読み人知らずとして勅
撰和歌集に加えてその思いに答えたのです。
   さゞなみや 志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな 
        (読み人知らず「故郷の花(古京の花)」『千載集』巻一)(「忠度都落」『平家物語』巻七参照)


 後、名場面と言えば北陸での齋藤別当実盛最期の場面、那須与一扇の的、屋島の佐藤継信戦死の場
面でしょうか。
   朽ちもせぬ むなしき名のみとどめてをきて、
   かばねは越路の末の塵となるこそかなしけれ (「実盛」『平家物語』巻七)


 *因みに、無賃乗車のことを「サツマノカミ」と言うのは(最近じゃ言わないか)、
  平忠度(ただのり)が薩摩守(さつまのかみ)だったからです。
  う〜ん、俗語も結構文学してますねえ。
  ああ、東方と全く関係ないじゃないか……。


3.おまけ絵 “青葉之笛”

一ノ谷の戦敗れ、討たれし平家の公達哀れ



参考文献
・武田祐吉編『神楽歌・催馬楽』岩波文庫1935
・佐佐木信綱校訂『梁塵秘抄』岩波文庫1933
・『平家物語』(『日本古典文學大系』岩波書店)
・国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館1979
 ほか、歴史学の諸文献、『広辞苑』等の辞書

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