流竄の人形

流竄の人形 −付 大鐘婆の火− 鍵山雛
(目次)
 1.祓えの人形 −雛人形の源流−
 2.災厄を負いし人形 −流し雛−
 3.人形殺しの夜 −呪詛と人形−
 付.哀しみに燃える火 −伝説 大鐘婆の火−


 桜雛、柳雛、花菜の雛、桃の花雛、白と緋と、紫の色の菫雛。鄙には、つくし、鼓草の雛。相合傘の春雨雛。小波軽く袖で漕ぐ浅妻船の調の雛。五人囃子、官女たち。ただあの狆ひきというのだけは形も品もなくもがな。紙雛、島の雛、豆雛、いちもん雛と数うるさえ、しおらしく可懐い。

       泉鏡花「雛がたり」(川村二郎編『鏡花短篇集』岩波文庫1987)



流竄の人形



 三月三日の桃の節句には雛祭りと称し、美しい雛人形を飾ります。
 緋毛氈の敷かれた雛壇、たくさんの人形たち、調度、そして菱餅あられ白酒……。雛祭りは誰もが知っている、代表的な春の行事です。
 その一方で、節供行事が済んだ後、雛人形を川や海辺に流がすという風習も伝えられてきました。これが“流し雛”です。

 流し雛の風習は、古く禊ぎに関わるかたしろ・ひとかたの信仰へと連なるものと言われます。本稿ではかつて掲載した人形信仰に関する「人形送りの夢」では詳しく述べなかった“流し雛”の習俗について簡単にまとめてみたいと思います。
 付論として、「秘神流し雛」こと鍵山雛に関わる「大鐘婆の火」の伝説についてもまとめておきます。


秘神流し雛

1.祓えの人形 −雛人形の源流−

 三月三日の雛の節供の終わった夕刻、あるいは翌四日に紙製や土製の人形を海や川に流す習慣を流し雛と呼びます(図1)。

 上巳の節句としても知られる三月三日の雛祭りは、中国から渡来した三月上巳の儀礼(※1)と日本の祓の習俗が結びついて出来たものだと言われています。祓を行う際には、贖物(あがもの)と称する人形(ひとがた)が使用されました(※2)。人が身に受けた災厄や穢れを撫でたり息を吹きかけたりすることで移された人形は、川辺や海岸で水に流し棄てられます。これらの人形は天児(あまがつ)、這子とも呼ばれ、雛人形の原型の一つとなりました(※3)。

 人形を流すなどの水辺で行われる禊祓は、古くは宮中行事として行われていました。例えば、都の周辺の水辺では七瀬祓が毎月執り行われました。また、鎌倉幕府も同様の儀式を行っていました(※4)。
 やがて“ひいな”(ひひな)と呼ばれる古代以来の人形と祓の人形(ひとがた)とが混交することで、所謂雛人形が形成されて行きます。上巳の人形も中世以降立派になり、流さない飾り雛も作られるようになります(※5)。ですから、流し雛という形式は、古い祓としての性格を強く残したものと言えるでしょう。
 “神遊び”としての神聖な性質を残している。つまり、後の雛祭り、すなわち「ひひな遊び」は、遊びと言っても現在の意味とは異なり、神を迎えてもてなす「神遊び」であったのです。そして、子供の健やかな成長を祈り、災厄を祓う儀礼であったと見て良いでしょう。

  「雛遊は神代より伝わる神事なれば、おろそかにすべき事にあらず」(度会直方『雛遊びの記』)

 現在の雛祭においてさえ、そうした神性は残されていると言うべきでしょう。お雛様は「様」を付けることを始め、他の人形とは扱い方が異なりますし、婚期が遅れる等迷信の付きまとうのもそれ故なのかもしれません(この迷信自体は古いものではないです)。

*****

 参考までに、現在でも行われている、形代(かたしろ)・人形(ひとがた)を用いた祓の一般的な方法を見てみましょう。
 人形は白紙あるいは色紙(赤・黄)を切り抜いて作られます。まず人形(形代)で左右の手、次いで足、胴と順に撫でます。最後に両手で持った人形に息を三度吐きかけます。そしてこの人形を神社へ持参し、祓物とともに川や海へ流し棄てるという手順を取ります。
 かつての宮中儀礼の記録からは、古くからこれに似た儀礼が行われていたことがうかがえます。例えば、六月と十二月の晦日に宮中で行われていた節折(よおり)の儀では、帝の贖物として人形の入れられた壺が用いられました。帝はこの人形(鉄の人形二体と黄皮の人形二体を紙に包んで結んだもの)の入った壺(口気の壺)に三度息を吹きかけたのです。
 また、『源氏物語』にもこの習俗に関する記述が見られます。須磨の巻で、陰陽師を招いて海辺で上巳の祓を行うという部分です。

  「舟にことごとしき人形をのせて流すを見たまふに、よそへられて、[源氏]『知らざりし大海の原に流れきて ひとからにやはものは悲しき』」(須磨の巻)

 ちなみに、これらの人形は小さいものばかりでは無かったようです。『定家朝臣記』の天喜元年(西暦1053年)6月15日の条には2メートルを超える人形の記事があります。

  「御形代を作らしむ。長さ七尺許。紙を以て比々奈を作り、束帯并に冠を着けしむ

これは民間の巨大な人形道祖神などに連なるものなのかもしれません。

図1 流し雛(現代)
図1 流し雛(現代)
*****

 形代にさらばさらばをする子かな 一茶(『一茶発句集』)

(註)
 ※1:初めは三月の初めの巳の日であったが、魏の時代より三月三日になったということです(折口信夫「雛祭りの話」など)。また、「三月上巳の節句は古代中国の信仰行事、春の禊が伝えられたもので、これが日本で三月三日に固定するのは後世のことになる」(上田正昭『古代信仰と道教』)などと言われています。
 ※2:人形を用いた儀礼には、平安期に日本へと伝えられた中国の道教の影響もあったと考えられています。道教では身代わりの紙製人形を替身(ていせん)と呼びます。これは祭られた後に焼き捨てられます。厄払いに人形を使用する習慣を考える際には大陸からの影響も無視できないでしょう。
 ※3:これらの人形については以前「人形送りの夢」として書いたことがあります。本サイトのこちらを参考として下さい。
 ※4:茅の輪でも有名な夏越祓(水無月の祓)でも人形が流されます。
 ※5:節句などで雛人形を飾って遊ぶ風習は、平安期の「ひひな遊び」にその源流があります。しかし、これは元々上巳の祓とは無関係なものでした。つまり「ひとがた」と「ひいな/ひひな」は別物だったのです。しかし、江戸時代までには雛遊びが三月三日に定着しており、また幕府が五節句の一つとして三月三日を制定したため、雛“遊び”も雛“祭り”へと変化しました。こうしたことから、雛人形と祓の人形(ひとがた)の要素がより強く意識されるようになったと思われます。なお、五節句とは人日(1/7七草の節供)、上巳(3/3桃の節句)、端午(5/5菖蒲の節句)、七夕(七夕祭7/7)、重陽(9/9菊の節供)の五つを指します。



2.災厄を負いし人形 −流し雛−

 さて、流し雛ですが現在では限られた地域に残っているのみとなりました。有名な事例には鳥取県用瀬町和歌山県粉河町などの例があります。用瀬町では「流しびなの里」として町おこしを図っているようです。なお、現在各地で行われている流し雛行事には、近年に始められたものも多いのです。

 鳥取の例は室町時代から続くとされ(※1)、鳥取東部に広く行われていましたが、現在では一部に残るのみだそうです。鳥取の流し雛は中々美しく可愛らしいもので、10p程の男雛女雛それぞれ十体を二列に並べ、割竹に挟みます(別に一組だけのものもあります)。雛人形は竹を心として顔は土製、衣は赤い紙製です。男雛は金紙の冠に袴を着け、女雛は金紙の帯を締めます(図2)。雛壇に飾ったものを桟俵や折敷(おしき)に載せ(※2)、菱餅・お炒り・桃の小枝を添え、白酒を注いで川に流すのです。
 もしも川岸の草などに引っ掛かったりして流れない時には、災厄が去らないとか妖怪になって家に戻ってくるなどと伝えられます。

 和歌山粉川の流し雛も室町以来行われて来たと言います。ここでは雛流しや雛送りとも称します。雛は色紙の体に土製の頭を付けたもので、夫婦雛・内裏雛・子供と赤ん坊の雛の三種類があります(図3)。紀ノ川に流すと加太の淡島神社(人形供養で有名)へと流れ着くと伝えられます。
図2 用瀬の流し雛
図2 用瀬の流し雛


図3 粉河の流し雛
図3 粉河の流し雛
 ちなみに、柳田國男も美濃(岐阜県)で飾り雛とは別の流すための土製の人形を売っている事を記しています(「神送りと人形」)。
 また、房総地方には雛人形を船舶の守り神である舟玉様(フナダマサマ)にする地域があります。これは雛を海へと流すという儀礼が舟船の安全祈願と結びついたものとされています(※3)。このような考え方は、土佐で三月三日を「フナダマゼック」と言う事にも繋がっているものと思われます。

 先に述べたように、これら人形を流す行事には祓としての性質を見出すことができます。そのため、必ずしも3月3日に限った行事ではありませんでした(春が強調されるのは、春は農作業の開始時期であり、民間の雛遊びにも花見や磯遊びと同じような農耕儀礼としての性質があるからでしょう)。
 例えば、北安曇(長野県)の辺りでは色紙で作った人形(七夕人形と称する)を、八月八日に川へ流す習俗がありました。ここでも病気などを人形に移して流し去るのが目的だったようです。
 また、季語にもなっている「後の雛」という行事もあります。これは、9月9日に人形を飾って遊ばせる行事で、「後の雛」、「葛節供」などと呼ばれていました。この時もやはり小さな人形を作って飾り、その後に川や海に流すのです。

 ところで、現在残る流し雛の風習は、雛祭りの原型であり、かつての上巳の人形(ひとがた)の系譜を引くものとされることが多いです。しかし、これには異論もあります。鳥取や和歌山の例では、その存在は江戸期以前には遡れず、また歳時記への「流し雛」という言葉の登場時期からも、流し雛は比較的新しい習俗である可能性があるとの指摘です(参考文献中の石沢氏の論文参考)。
 流し雛は上巳の祓の人形とは別物で、むしろ江戸期以降に淡島信仰との関わりや古くなった雛人形の処理の問題から生まれたものではないかという訳です。
 一見、古い形を残して後世に伝わったと思われる風習が、本当に古い時代から連続して存在したものなのかという点は、もっと注意されるべきかもしれません。
(註)
 ※1:流し雛の伝統は江戸期を遡らないとの指摘もあります。江戸後期には現在のような風習が存在したのは確かなようですが、それ以前についてははっきりしない点もあるようです。
 ※2:桟俵に載せるのは、疫神送りや疱瘡神送りなどの神送りの習俗と混交したからかもしれません。
 ※3:人形供養で有名な紀州加太の淡島神社は、海上安全の神としても知られています。


3.悲運の人形 −哀しみのイメージ−

 さて、流し雛には美しくも哀しい影があるように思われます。それは親しんだ人形との別れの寂しさでしょうか。それとも自らの罪や災厄を無垢な人形に負わせたという後ろめたさなのでしょうか。
 三月三日の桃の節句は、雛人形にせよ、曲水の宴にせよ、そこで行われる行事が華やかできらびやかなだけに、それが終わった後の流し雛には、返って物悲しい雰囲気があるのかもしれません。

 そうしたイメージを幾つかの分野で見ることができます。まずは歌舞伎に見られる流し雛のイメージを取り上げてみましょう。


厄神さま

 ここで取り上げるのは、浄瑠璃『妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)』(明和八年(西暦1771年)初演)を原曲とする歌舞伎の第三段「山の段」(通称:吉野川の場、雛流し)です。満開の桜と雛飾りの中で展開される悲恋の物語は、日本版ロミオとジュリエットとして有名です。
 反目する二つの家に生まれながら愛し合う雛鳥と久我之助は、悪役蘇我入鹿によって別離か死かの選択を迫られます。さらには互いを思う気持ちや親の配慮も裏目にでてしまい。共に命を落とすことになってしまいます(ここは物語を詳しく解説する場所ではないので、簡単に済まします。興味がある方は少し調べればすぐにわかると思います)。
 舞台では、雛鳥の親は我が子の首を切った後、雛道具を川へ流すのです。

  「未来へ送る嫁入り道具……、命ながらへ居るならば、一世一度の贈り物、五町七町続く程、びゝしうせんとたのしみに思ふたことは引き換へて水になつたる水葬礼

 そして最後に裏返した琴に雛鳥の首を載せて流します(まるでオルフェウスの物語のようですね)。
 やがて首は自害した久我之助のもとへと届けられます。こうして雛鳥は現世で果たせなかった嫁入りを果たすのです……。

 このような演出からも、美しい人形を流し棄てるという行為には寂しさ悲しさがつきまとうものだったことがうかがえるのではないでしょうか。
 なお、喜多村信節『嬉遊笑覧』(六下、児戯)では、流し雛の習俗とこの道具流しの類似が指摘されています(※1)。ここで喜多村は相模国愛甲郡敦木の里(神奈川県厚木市付近)の風習を採集しています。それは、壊れた古い雛人形を年毎に持ち寄って馬入川(相模川)に流すというしきたりです。人形の持ち主の少女達は白酒を持って集まり、別れを惜しんで盃を交わします。そして桟俵などに載せて人形を流す際には憐れんで泣く仕草をするというのです。

  「相模愛甲郡敦木の里にて、年毎に古びなの損したるを児女共持出て、さがみ河に流し捨ることあり。白酒を入、銚子携えて河辺に至れば、他の児女もここに来り、互いにひなを流しやることを惜みて、彼白酒をもて離杯を汲かはして、ひなを俵の小口などに載て流しやり、一同に哀み泣くさまをなすことなり

 また、信濃(長野県)にも類似の風習が伝えられています。傷んで飾れなくなった雛人形に汁粉を供えた後、桟俵に載せて皆で見守る中で川に流すというものです。『信濃の民俗』で収集された南佐久での証言には次のようにあります。

  「おひなさまを川へ流すと、おひなさまに疫病神がのりうつって流れていってしまうから、厄が落ちるとか、病気をしないなどといわれた

*****

 終わりに、参考として上巳の節句の由来についての和歌森太郎の説(※2)を紹介しておきましょう。
 和歌森は、中国南方での蟠桃会の由来譚を元に、雛人形は犠牲にされていた子供の形代であるという説を展開しました(※3)。
 その由来譚とは次のようなものです。

 “かつて、橋の難工事を克服するために、龍蛇に子供を生贄として捧げていました。しかしある時、生贄の子供を選ぶ天狗を嫌って桃の枝でこれを追い、子供の代わりに菱の実(子供の魂と同じと見なされた。これが日本では菱餅となった)を捧げることしました。”

 華やかな子供のための祭、雛祭りは、実は共同体のために犠牲になった幼き者たちの姿を遙かに遠く伝える風習なのかもしれません。

*****

  草の戸も住み替はる代ぞひなの家 松尾芭蕉(『奥の細道』)

(註)
 ※1:相模川の習俗紹介の後で、喜多村は「妹背山浄るりに、ひなの道具を水に流すことあるは、作り設けしことゝのみ思ひしに、かく似たることあり」と述べている。
 ※2:和歌森太郎『年中行事』(『日本歴史新書』至文堂1957)
 ※3:なお、和歌森は同書において、かつての日本では春の農作業の開始に当たって物忌みや禊ぎ祓えが行われており、その際の形代(人形)を流す儀礼が流し雛の由来であろうと述べている。



付.哀しみに燃える火 −伝説 大鐘婆の火−

 秘神流し雛こと厄神様は、“バッドフォーチュン”とか“壊されたお守り”、”流刑人形”など、いかにもなスペルを用います。ところが、その中にちょっと毛色の変わったものとして、悲運「大鐘婆の火」というものがあります。
 付論として、元の伝説について少し述べておくことにしましょう。

*****

 「大鐘のお婆さんの火」

 これは所謂“怪火”にカテゴライズされる伝説です。『百物語評判』、『諸国俚人談』など江戸期の怪談集や随筆にはしばしばこうした怪火の記事が見られます。鳥山石燕の百鬼夜行のシリーズにも幾つもこうした怪火が描かれています。

 怪火は、原因(と考えられていたもの)によって主に次の三つに分けられそうです(※1)。
 まずは人の魂、次いで生物の類の灯す火、そして人の念が燃えるものです。最初のものは所謂人魂(ひとだま)で、死霊のことも生霊のこともあります。次のカテゴリーには“狐火”とか“青鷺の火”などが含まれます。最後に挙げたのが大鐘婆の火が含まれると思われるカテゴリーで、人間の残した恨みや怒り、執着心など強い思いが火となって現れるというものです。これも例が多く、“仁光坊の火”だ“姥が火”だと無数にあります。

悲運 大鐘婆の火
 そして、特定の場所に現れる火の怪異の場合には悲劇的な物語が付随している場合も多いようです。

 さて、“大鐘婆の火”(怪異・妖怪データベースでは「青い火」)は、静岡県(遠州)の横須賀(現静岡県小笠郡大須賀町)に伝わる怪異です。大正4年9月(1915年)の雑誌『郷土研究』で報告されました(渡辺三平「遠州横須賀より」)。その内容はおおよそ以下のようなものです。

  “大鐘という素封家があり、その家のお婆さんが田地を供養のために寺へ寄進した。ところが、何代か後の寺の住職がその田地を質に入れてしまった。そのためお婆さんの遺恨が青い火となり、雨が降る夜に飛び歩くという。”

 ところで、この伝説については細部が少し異なる話もあります。
 それは高木敏雄『日本伝説集』に採録されている「大鐘婆サの火」(長者伝説に分類)の物語で、次のような内容のものです(※2)。

  “お婆さんは子孫が絶えた素封家大鐘家の最後の一人でした。ところが、その死後に親族が祭祀を継ぐ者も決めずに勝手に遺産を処分してしまったことを恨みに思って、雨のしょぼ降る夏の夜には、「これも家の田だ、これも家の畑だ」と言いながら田畑の上を青い火となって飛び回るようになりました。火は最後には宝珠寺で消えるのですが、そこにはお婆さんの墓があったのです。この灯は人に仇をなすことは無く、また子供達が「大鐘婆サ遠い遠い」と言うと近づき、怖がって「大鐘婆サ近い近い」と言えば段々遠ざかるといいます。(横須賀の戸塚某から収集した話)”

 火となって燃え上がる程の強い遺恨を持ちながらも、人には仇をなさず、子供が怖がると引き下がるという姿には、何だか物悲しいものを感じます。
 没落した家に老女が唯一人残されるという話は、長者伝説(長者の家が没落する物語)でよく聞くものです。座敷童が出て行って滅んだ旧家も同様でした(『遠野物語』)。

 まさに悲運の物語と言えるでしょう。

*****

 散漫な文章におつきあい頂き、ありがとうございました。
 それではまた、因果の律が交わる時にお会いしましょう。

   [おしまい]

(註)
 ※1:江戸期の人は、こうした火を陽火と陰火に分けたり、天火・地火・人火に分けたりと、陰陽五行説などに基づいた様々な分類を試みています。(『百物語評判』)
 ※2:村上健司の『妖怪事典』にはこちらの話が引かれています。

参考文献
 柳田國男『遠野物語』角川文庫1955
 斎藤良輔編『郷土玩具辞典』東京堂出版1976
 斉藤良輔『人形 第4巻:雛人形と武者人形』京都書院1986
 齋藤良輔『おもちゃ博物誌』騒人社1989
 山田徳兵衛編『図説 日本の人形史』東京堂出版1991
 和歌森太郎『年中行事』(日本歴史新書増補版)至文堂1966
 高田衛編・校注『江戸怪談集』岩波文庫1989
 村上健司『妖怪事典』毎日新聞社2000
 石沢誠司「淡島信仰と流し雛」『郷玩文化』(171号)郷土玩具文化研究会2005.10
 柳田國男「神送りと人形」(『定本柳田國男集』13巻、筑摩書房1963)
 折口信夫「雛祭りの話」『折口信夫全集3』中央公論社1995(初出『愛国婦人』1922.3)
 高田衛監修『鳥山石燕 画図百鬼夜行』国書刊行会1992
 竹原春泉『桃山人夜話』角川文庫2006
 祐田善雄校注『文楽浄瑠璃集』(『日本古典文学大系』99岩波書店1965)
 高木敏雄『日本伝説集』宝文館出版1973
 喜多村信節『嬉遊笑覧』岩波書店2002
 国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館1979
  ※『広辞苑』他各種の辞書、百科事典



東方民譚集へ

文蔵へ

表紙へ戻る