活人形 メディスン・メランコリー

活人形

 活人形       器物百年を経て
  人の心を誑す
  ましてや
  人の姿を写し
  愛情長く受けし
  人形ならばと
  夢こゝろに思ひぬ
 小さなスイートポイズンこと、メディスン・メランコリーです。
 
 生まれたばかりの無垢な妖怪。独り言の多い毒人形。
 スーさん!スーさん!

 属性としては「毒」と「人形」を持っているのですが、「毒」については又別の機会にでも。
 さて、人形が心を宿して動いたりしゃべったりするという話は、古今東西広く存在します。神話や昔話から世間話のようなものまで、その種類も多種多様です。なお、我が国での民間信仰に関する人形に関しては、アリス関連でここここで少し触れました。
 例えば、現代版の世間話と言える都市伝説にも、人形に関わるハナシはたくさんあります。みなさんも、髪の伸びる市松人形や、三本足のリカちゃんの怪談を聞いたことがあるのではないでしょうか。その形状から、人間の作るモノの中でも、特に感情移入されやすいものなのでしょう。妖怪画で有名な『絵本百物語』にも「夜の楽屋」という項目があり、文楽人形の怪異が描かれています。

 ところで、日本では、文楽人形にせよ河童にせよ、人形の怪異にも、恐ろしさの中にもユーモラスさや親しみやすさを感じることが出来ます。唐傘お化けや提灯お化けと同様の感覚です。しかしこれはアミニズム的な我が国ならではのことらしく、ヨーロッパ世界の人形の怪異には、どこかフランケンシュタインの怪物のような“神に逆らう”不自然で非倫理的なイメージが付きまといます。魂の有無とか、基督教の教義に関わる問題なのかも知れません。その辺りのモノ(や動物)に対する感覚が、日本の民俗社会と基督教世界とでは随分異なるようです。
 勿論、フランケンシュタインの物語も、父親(作り手)にすら受け入れられない悲劇の人造人間の物語として見ることが出来ます。ああした悲劇への共感は、非基督教徒の方が持ちやすいように思います。神云々も、魂云々も関係無く、人の形をしたモノに対して、私達は容易に心を認めることが出来るのですから。
 そんな基督教社会ですら、多くの生き人形の伝説や物語があるのは、それだけ人形というモノが魅力的だったからに違いありません。ここでお気に入りの伝説を一つ。
 それは、「我思う、故に我有り」で知られるデカルトが、五歳くらいの女の子の自動人形をトランクに入れて持ち歩いていたという伝説です。彼はその人形に対して常に生ける者を扱うが如く話しかけ、身の回りの世話を焼いたりしていたといいます。そして、その人形のモデルは幼くして死んだ彼の娘フランシーヌで、彼は娘を溺愛していたというのです。

 ともあれ、私にとって生き人形と言えば、鉄腕アトムを始めとするラピュ○のロボット兵とかの心を持った悲劇の人工生命な訳です。他にも……、と挙げてゆくときりがないので止めますが、何というかつい悲劇的側面を見てしまうのです。幸か不幸かこの毒人形には悲劇はまだ訪れていないようです(唯、そもそも捨てられた過程が悲劇だとも取れる)。
 で、ポーズが例のロボット庭師なわけで。何というか、ほとんど面影を残していませんが………。

 さて、絵では文楽人形風を試みてみたのですが、よく考えれば女役の文楽人形には足が無くて裾捌きだけで表現するのでした、って駄目じゃん。詞書きは、前半二行は『付喪神記』が引用する『陰陽雑記』の有名な一部です。もっとも、『陰陽雑記』自体は架空の書のようですが。瓶やら琵琶など年経た器物さえ化生となると考えられていたのですから、人間の姿を模した人形は尚更でしょう。

 彼女には是非とも、美しくも儚い悲劇の主人公になって貰いたい。―――無理かな?毒人形だし。


参考文献
  高田衛監修『鳥山石燕 画図百鬼夜行』1992国書刊行会
  竹原春泉『桃山人夜話』角川文庫2006
  小松和彦『日本妖怪異聞録』小学館1995
  小松和彦『妖怪学新考』小学館1994
  小松和彦『憑霊信仰論』講談社学術文庫1994
  澁澤龍彦『幻想の彼方へ/人形愛序説』白水社1980(『ビブリオテカ澁澤龍彦 4』)
  種村季弘『怪物の解剖学』青土社1974
 ほか


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