●蛇足の解説(西行法師)の巻    

上白沢慧音さんの歴史講座「伝承文化と民間信仰」 知識と歴史の半獣
・漂泊の歌人西行法師

 さて、今回は西行妖ゆかりと思われる西行法師について述べようと思う。ただし、西行法師は大変有名な人物であり、関連文献や研究書もたくさんある。ここで余りくどくどと概略を述べても詮無きことかと思う。従って、主に東方世界と関連が深そうな話題について語るに留めたいと思う。詳しく知りたい方は、概説・伝記は勿論、文学・歴史・民俗学の各分野における文献が数多くあるので、参考にされたい。

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 西行法師(1118−1190)は平安時代末期の著名な歌人。漂泊の歌人と称され、生涯を旅の中に送った。自然と宗教的境地の一致した自由な歌を詠んだことで知られている。彼の生きた時代は、平安から鎌倉への動乱期、まさに平家の台頭から源平の争乱期に当たる。その中で彼は世の無常を感じつつ、自然と仏法とに心を寄せ、自由な心でその研ぎ澄まされた歌風を造り上げたのだ。
 自ら詠んだ「願はくは花の下にて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ」の歌の通りに往生を遂げたことでも有名だな。末世戦乱の世の中で、稀なる仏果を得た人物として、同時代の人々に感銘を与え、憧憬の的となったと言う。歌道における名声とも相俟って、後世伝説化が進んだ。虚実取り混ぜて様々な逸話が伝えられている。

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 まずは西行法師の生涯を追ってみよう。
 西行法師の俗名は佐藤義清という。史料によっては憲清・則清・範清と表記されており、名前の読み方は「のりきよ」であったと思われる。
 彼の家柄は、承平・天慶の乱で武功を立てたことで知られる藤原秀郷の嫡流である。代々左衛門尉・内舎人などに任ぜられ、佐藤(左藤)と呼ばれた。祖父の季清は極めて有能な官人だったようだ。また紀伊国(和歌山県)に所領を持ち、裕福な家柄でもあったと思われる。
 義清(後の西行)は佐藤康清を父として、今様や蹴鞠などに優れた監物源清経の娘を母として、元永元年(西暦1118年)に生まれた。奇しくも平清盛と同年である。幼くして父を失ったらしい。保延元年(西暦1135年)18歳で兵衛尉に任じられ、やがて鳥羽院の下で北面に補せられ
(※北面の武士として、院の警護に当たる役職)、また徳大寺家藤原実能の家人として仕えた。彼が崇徳院に心を寄せたのは院が徳大寺家の血筋であるからであろう。彼は和歌・流鏑馬・蹴鞠などにその才能をあらわし、鳥羽院にも愛された。
 だが、そんな前途洋々たる生活の中で、彼は保延六年(1140年)23歳にして出家した。これは藤原頼長の『台記』、『百練抄』(十月十五日とある)によるもので、『西行物語』、『撰集抄』、『吾妻鏡』などによる異説がある。法名を円位、房名は大宝房、号して西行という。なお、円位というのは後半生、名声を得てから権威筋から拝領した法名とした文献もあったな。出家遁世の原因については古来様々な説が云々されている。『西行物語』(鎌倉時代)には切迫した無常観によるものとあり、『源平盛衰記』には、ある上臈女房に対する失恋によるものとある。また室町時代末頃の『御伽草子』「西行」には鳥羽院の女院を恋して出家したとある。また一族で友人であった左衛門尉憲康が急死し、世の無常を感じたとも、政争相次ぐ現世に厭離の念を起こしたともいう。実際の所は不明と言うほか無いが、おそらく、先行する能因法師などの遁世歌人の例に倣ったのであろう。
 彼には出家時に妻(呉葉の前とも)と娘があったという、これは鴨長明『発心集』に記されており、ほぼ間違いないだろうとされている。この他に『尊卑分脈』によると、後に高僧となった隆聖という息子がいたともいう。また『十訓抄』によると夭折した娘があったという。父親を慕ってすがりつく、日頃心からかわいがっていた娘を、縁から蹴落として執着を絶ったという逸話は『西行物語』に見られるものだが有名だろう。妻と娘のその後については、早く亡くなったとか、尼になったとか、貴族の家へ上がって幸福になったとか、説話によって様々だ。
 『台記』(永治二年三月十五日の条)には次のように記されている(原文は漢文)。
  「重代の勇士を以て法皇に仕え、俗時より心を仏道に入る。家富み年若くして心無欲、遂に遁世、人之
   を嘆美す」

 出家後しばらくは京嵯峨や東山に草庵を結び、歌会へ出たり鞍馬寺で仏道の修行を行ったりしたと伝えられる。その後能因法師の足跡を辿って奥州を旅している。白河関、信夫の里、衣河など歌枕を訪ねつつ平泉より出羽にまで至った。その後は高野山に庵を結んだ。そこでは、毎年吉野山で花見を行い、また修行を兼ねて天王寺、熊野、厳島等の寺社に参詣し、大峯で修行したとも伝えられる。結局諸国行脚は五十年にわたり、生涯の三分の二を旅に送ったことになる。
 その間に、鳥羽院の葬列に参会し、また保元の乱に敗れて仁和寺に籠もった崇徳院を訪ねたりしている。
 西行の崇徳院への思いは止みがたく、院の讃岐への配流後も歌の遣り取りをしていたようだし、院崩御後の仁安二年(西暦1167年)
(※或いはその翌年)には四国讃岐国の崇徳院の陵を訪れて鎮魂の歌を捧げている。この逸話は、様々な文芸作品『源平盛衰記』や『撰集抄』第一(新院御墓讃州白峯有之事)、謡曲「松山天狗」、上田秋成「白峯」(『雨月物語』)などで知られる極めて有名なものだ(参照天狗覚書4頁)。
  「よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせむ」
    (「白峯と申す所に御墓の侍りけるにまゐりて」『山家集』)

 この時弘法大師ゆかりの善通寺に草庵を結んでいる。九州筑紫へもこの頃訪れたらしい。その後も伊勢国などを訪れている。
 文治二年(西暦1186年)には東大寺大勧進重源の依頼を受けて、源平の争乱で焼け落ちた東大寺再建の砂金勧進のために奥州藤原氏、藤原秀衡を平泉に訪ねている。その途中で鎌倉に立ち寄り、源頼朝に請われて流鏑馬の技法などを講じたと伝えられる。西行は鎌倉にずっと滞在して欲しいという頼朝の願いを断り、せめてと渡された銀製の猫は受け取ったが、館の外で偶々遊んでいた子供にこれをあげてしまったという。
  「十六日 庚寅 午尅、西行上人退出頻雖抑留、敢不拘之二品、以銀作猫、被充贈物上人、乍拝領之、
   於門外、与放遊嬰児(『吾妻鏡』)

 また富士山を詠んだ次の歌もこの旅の折りのものと伝えられる。
  「風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな」(『新古今集』雑中)
 翌年京へ帰り、嵯峨に草庵を結んだ。文治五年には葛城山麓、河内国弘川寺に草庵を結んだが、病を得、翌建久元年(西暦1190年)二月十六日入寂した。当時の人々の賛嘆は次のような歌や文章に残されている。
  藤原俊成「願ひ置きし花の本にて終りけり 蓮の上も違はざらなむ」
  慈鎮  「君知るや其の如月といひ置きて 詞に送る人の後の世」
  「かく詠みたりしををかしく見給ひし、殊につひに二月十六日望の日終りとげること、あはれにありがたく
   覚えて」(藤原俊成『長秋詠藻』)

 因みに後世に伝わる西行忌は陰暦二月十五日とされる。これはおそらく釈迦の入滅日とより深く結びつけようとした結果の付会であろう。それから春の季語だ。

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 続いて歌人としての西行についても記しておこう。
 西行の歌は、『詞花集』に詠み人知らずとして始めて1首がとられ、『千載和歌集』には18首、『新古今和歌集』に至っては最高の94首が採られている。藤原俊成、定家と並ぶ当時の歌壇の中心人物といって良いだろう。二十一代集に合計265首が採用されている。小倉百人一首にも1首が採られている。八十六番の「なげけとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな」だな。元は『千載集』恋五に採られていたものだ。
 ちなみに、「身のうさを思ひ知らでややみなまし そむく習のなき世なりせば」の歌は『山家集』の「五首述懐」の歌だが、『新古今集』にも採られている。
 彼の歌については藤原俊成、定家をはじめ、同時代の人物からも高い評価を受けている。例えば『後鳥羽院御口伝』によると後鳥羽院は西行の歌を評して、次のように述べている。
  「西行はおもしろくて、しかも心も殊に深くて、あはれなる難有く出来がたき方もともに相かねてみゆ。生
   得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」


 折角だから、代表的な彼の歌をいくつか挙げておこう。
  「津の国の難波の春は夢なれや 蘆の枯葉に風わたるなり」
  「心なき身にもあはれはしられけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
  「吉野山去年のしをりの道かへて まだ見ぬかたの花をたづねむ」
  「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけりさ夜の中山」


 また西行は連歌の宗祇や俳諧の松尾芭蕉ど、後世に熱心な追随者を数多く出している。
 私歌集に『山家集』、『西行上人集』などが、自歌合に『御裳濯河(みもすそがわ)歌合』、『宮河歌合』、歌論書に『西行談抄』がある。最も有名なものは『山家集』で六家集の一つとして数えられている(他の五つは藤原俊成『長秋詠藻』、藤原良経『秋篠月清集』、藤原定家『拾遺愚草』、藤原家隆『壬二集』、慈円『拾玉集』)。原型はおそらく西行の自撰と思われる。西行の作風は絢爛華麗な新古今調とは異なる独自で孤高のものとされる。俗語の使用も多く、同語の反覆を好む。素直で自由なため、人間味溢れる一方で、推敲が足らずやや独善的とも評される。詠みっぱなしという訳だ。だから彼の歌は玉石混交、名歌もあるが屑歌も多いとも言われている。
 西行は自然に深く交わり、旅の哀れを実感している。彼は月と花を愛し、また対象の背景に仏教的観念を重ね合わせている。この詠風や生き方が後世に大きな影響を与えたのだ。
 また、彼の著作に擬されているものに『撰集抄』がある。明治までは西行によるものと信じられてきた。内容の検討から西行によるものとは認めがたいが、西行ならこう書いたであろうと人々が考えたことを知ることができる。おそらく宝治建長年間(西暦1247-55年)に成立したものと考えられている。

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 西行法師はまた、様々な逸話・伝説に彩られた人物でもある。
 良く知られた逸話には、天竜川の渡しで無法な武士に傷つけられても平然としていた話(『西行物語』)や、荒法師として知られる文覚上人に「あれは文覚にうたれんずる者のつらやうか。文覚をこそうちてんずる者なり」と言わせたとこと(『井蛙抄』)。遊女江口の君との歌の贈答(『撰集抄』第九。贈答歌は『新古今集』巻十にあり、後『撰集抄』第六、『十訓抄』、『古事談』などでは遊女と普賢菩薩を同一化している)、長谷寺で尼となった妻に再会したこと(『撰集抄』)などがある。また有名な大磯の鴫立亭は、東国にあった西行が『千載集』の事を知って帰京する途上、此の地で彼の「心なき身にもあはれはしられけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」(山夕の歌の一つとして知られる、『新古今和歌集』に入選)の歌が入っていない事を知り、見る必要なしとして引き返した場所と伝えられる。特に「江口」、「雨月」、「西行桜」、「松山天狗」など『撰集抄』で語らえる逸話は謡曲に取り入れられ、現在でも能楽の西行物として見ることができる。
 日本全国にゆかりの地が伝えられている。それは九州からはるか奥州にまでわたる。史実の上からは西行が実際に訪れたとは思えないような地にも同様な伝承がある。それは袈裟掛け松やら腰掛け石といったものだ。何れも、弘法大師に代表される、全国を巡った高僧聖人について語られる内容だ。つまりは、本来名も無き漂泊する宗教者、聖(ひじり)などについて残された伝承に、後世「西行」という固有の名称が冠されるようになったということだろう。また、西行がその木を的にして矢を射て、それが見事に命中したという西行杉のような伝説もある。これも柳田國男が指摘したように、源頼朝や藤原秀郷によるとされる伝説と共通するものがあり、おそらく樹木やそれを依り代とする神霊への信仰があったことをうかがわせるものだろう。
 一方、滝の鼓や西行返しの坂などの伝説は、歌に絡む西行ならではのものと言うことできよう。滝の鼓は、西行が夢の中で住吉の神(の化身たる老翁)より歌の推敲を受けたといった話である。各地の西行坂は、西行戻しの松とか西行の戻り石と同列に、西行が旅の途上で出会った地元の人間と問答し、その知恵に驚いて帰ったというような内容の地名伝説によるものだ。問答の内容は頓知のようなものだったり(うるか問答、わらび問答など)、歌の応酬だったりする。歌の内容などは、実際には西行との関わりがないと思われるものが多い。その道の名人が、無名の庶民にやりこめられるという内容だが、その具体的人物名として西行法師が用いられていると言うことは、旅の歌人としての西行の知名度がいかに高かったのかを示しているといえよう。この話の類例には蟹やら亀との問答なぞもあり、内容も滑稽な笑い話でむしろ昔話に近い趣がある。
 ところで、西行について、峠や坂、橋など境界にあるモノと結びついて伝説が残されている。先程も述べた西行返しの坂などもそれである。鎌倉には西行橋という橋もあったそうだ。これは、境界や歌に関係する信仰と旅の聖など様々な要因が重なった結果、その具体的イメージとして浮かび上がった西行の名が撰ばれたということなのだろう。

 ちなみに、西行橋は裁許橋(さいきょばし)の転訛という説もある。裁許は裁判断罪と関連深いわけだが、熱田にも裁断橋という橋が精進川(しょうじがわ)に架かっていたという。その近傍には姥堂があり、その正体は三途川の婆などともいって地獄の裁判所の出張所の如く考えられていた時期もあったそうだ。だが、精進川のショウジとは境界を護る神のことで、元々境の神を祀る川という意味を持っていたと考えられる。このことから裁断橋の裁断はむしろ橋占・歌占に関わることと思われる。歌占は境界(峠や辻、橋など)でそこを通る人々の言葉や歌から吉凶を判断するものである。これを橋で行えば橋占である。橋占の信仰習俗は橋姫の伝説や戻り橋、面影橋、細語橋(ささやきのはし)、歌詰橋などの伝説に色濃く残されている。結局の所、西行戻しの橋も西行思案橋も、普通のように唯渡るだけの橋ではなかったことを伝えているものと考えられるのだ。つまりそこに橋占の信仰の跡が残されていると言えるという訳なのだ。
 西行橋は、橋占の吉凶を判ずるの意味の裁許と、その神意の表れとして示現する歌、そして廻国の宗教者のイメージが重なって西行という名が残されたものなのではないだろうか。
 西行から三途の川やら堺の神、安倍晴明など様々な話題へと繋がっていく。これが民間信仰や民俗学の面白いところだな。

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 管理人  :逸話と言えば『撰集抄』第十五の「西行高野ノ奥ニ於テ人ヲ作ル事」が有名でしょう。
      :
「同じく浮世をいとふ花月の情をわきまへむ友恋しく覚えしかば」ということで、屍体から反魂の
       術を用いて人を作るという話。
       ……と言う訳で、きっと半人半霊のよ
〈---検閲:無かったことに---〉じゃないかと思うんだけど、
       って、あれ?」

 上白沢慧音:そんな妄想にはつきあってられんな。無視して続けるぞ。

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 西行の庵の跡も各地にある。京都周辺はもとより、伊勢、河内、讃岐などにも西行庵の史跡が残されている。漂泊しながら各地を転々としたので、草庵跡が彼方此方に残るのも解らなくはない。京都では西山大原野の小塩山勝持寺の西行庵が最も有名だろうか。寺では西行はここで出家したと伝えているようだが、拠るところを知らぬ。祇園円山公園南側の雙林寺にも西行庵が残る。現在は茶室のように使用されているはずだ。此の寺も西行ゆかりと伝えられ、頓阿法師や平康頼と共に西行の墓もある。『西行物語』では西行はこの寺で寂したことになっているからな。またこの近くには芭蕉庵という草庵もあるが、これも西行と関わりがある。元々この地には阿弥陀房という庵があり、そこを訪れた西行が「柴の庵と聞くは悔しき名なれども 世にも好もしき住居(すまい)なりけり」と詠ったという。後年これを慕った松尾芭蕉が「しばの戸の月やそのままあみだ房」と呼んだとされる。芭蕉庵はそれを偲んで高桑闌更という人物が天明三年(西暦1783年)に建てたものという。さらに、嵯峨二尊院付近や嵐山山田町などにも西行庵跡がある。これに伊勢や吉野の西行庵を加えると、全国でかなりの数の西行庵跡があることが予想される。また、京都伏見の竹田には西行寺跡が残っている。これは西行が出家前に住んでいた邸宅跡と伝えられる。

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 管理人  :近くにも西行ゆかりの地がありました!
      :片瀬の滝口寺付近には西行見返の松があります。それから熊野森権現に歌碑がありました。

        「芝松のくずのしげみに妻こめて とか美か原に牡鹿鳴くなり 西行」
       です。新しいものですが。
       どうも原典は『西行物語』の
「しか松のかすのしけみにつみこめて とかみ原におおしかなくなり」
       の歌らしい。砥上ヶ原(とがみがはら)はこの辺の古い呼び名です。
       ま、鎌倉とか鴫立亭も近いと言えばそうなんですが。


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 西行は桜と強く結びついて語られてきた。故に西行の愛でた桜という伝承も各地に残っている。歌に詠まれた吉野山や平泉などだ。京都ではやはり大原野の勝持寺の西行桜が有名だろう。今でも「花の寺」と呼ばれ桜の名所として知られている。西行が庵を結び、一本の桜の木を植えたのが、今日450本を数える桜の始まりだという。最も、お手植えの桜は今は無し、と記した文献があるようで、現在の西行桜はその名を継いだものと言う訳だ。確か三代目だったか。謡曲「西行桜」の舞台はこの寺だといわれる。舞台の西行の庵は小倉山の麓という話もあるがな。なお、勝持寺は応仁の乱で荒廃したが、天正年間(西暦1573-92年)に最興、さらに明治期の復興を経て今日に至っている。境内には西行庵ほか、西行ゆかりの史跡が幾つも残っている。他に嵯峨の法輪寺南にある桜も有名か。この桜は西行が「詠(なが)むとて花にもいたく馴れぬれば 散る別こそ悲しかりけれ」(『山家集』上)と詠ったものだという。
 西行と桜とは謡曲「西行桜」にも表れているな。これは金春禅竹作の準鬘物で、シテに老木の桜の精、ワキに西行を配す所謂西行物の一つだ。西行が求めた孤独が花見の客の為に破られるのを嘆き「花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける」(『山家集』「静かならんと思ひ侍る頃、花見の人人まうで来たれば」)と口ずさむ。その後夢に桜の精が現れ、その歌を咎め、議論を持ちかける。そして桜の名所を語り舞を舞うのである。……謡曲の粗筋はこうまとめてしまうと少し何だな。
  「さりながら、捨てて住む世の友とては、花ひとりなる木の下に、身には待たれぬ花の友人、少し心の外
   なれば、花見にと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の科にはありける」
  「いや浮世と見るも山と見るも、唯その人の心にあり。非情無心の草木の、花に浮世のとがはあらじ」


 ここで少し墨染桜と西行との関係について考えてみたい。墨染桜は桜の一品種でもあるのだが。墨染桜として有名なのは、京都伏見にあるもので、『古今和歌集』哀傷歌にある上野岑雄「深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け」の桜だ。これは藤原基経の死を悲しんで詠まれたもので、桜はこの歌に応えて墨染に咲くようになったという。この話は謡曲に脚色されるなどしている。一方、西行に関しては、千葉に西行が墨染桜の杖を刺していったものが成長したという伝説がある。『日本伝説大系(五)』では『房総の伝説』(平野馨、第一法規出版1976)を引いて、西行が上野岑雄の歌を本歌として「深草の野辺の桜木心あらば またこの里にすみぞめに咲け」と詠んだこと、この桜は紅色から白色、最後に墨色へと変化するいう伝説が千葉の東金にあることを記している。なお浄瑠璃に「西行法師墨染桜」があるが、申し訳ないが未見なので内容は解らない。兎に角西行と墨染桜を結びつける説話があり、それなりに知られていたと言うことだろう。ちなみに、これに関して、西行の杖桜という伝説がある。柳田國男の「神樹篇」によると、これは信州更級郡佐野の薬師堂の杖突の桜で、西行の杖が成長したとも手植えの桜とも伝えているという。なおこの木は貞享元年に焼けてしまい、今伝わるのは根芽の成長したものだそうだ。これら杖が成長して桜になったという伝説は日蓮やら空海やらの高僧に関わる伝説として各地に伝えられたものの一変種であるが、その特徴として名木が奇種逸品であることが挙げられる。これを考えると西行の杖突の桜が墨染であったのも肯けることだ。

 初めにも述べたが、「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」の歌や、『山家集』でその次に載せられた歌「仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば」などにも彼の桜に対する想いがうかがえよう。画帳の「華胥の亡霊」の詞書きに示した「命をしむ人やこの世になからまし 花にかはりて散る身と思はば」は西行の『聞書集』「花のちりけるを見てよみける」に記されている。
 蛇足だが、「願はくは………」の歌は『新古今集』編纂の最終段階まで残っていた。しかし結局切り出し(削除)され、異本にのみ掲載されている。それでもこの歌は時代が下る『続古今集』に採られている。

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 西行は古来有名な人物なので、それにまつわる言葉も多かったようだ。今はどうだか知らぬがな、多分死語だろう。例えば「富士見西行」という言葉がある。これは西行法師が笠や持ち物を脇に置いて富士山を眺めている後ろ姿の図であり、画題として好まれた。彫刻や焼き物、玩具にも好んでこのモティーフが用いられた。ちなみに「富士見西行を決め込む」とは後ろを向いて知らん顔をすることだ。またこの画題の西行の様子から「西行掛・西行背負(じょい)」(風呂敷包みなどを肩から斜めに背負い、胸の前で結ぶこと)、「西行被(かずき)」(笠を後頭部へずらして、あみだに被ること)という言葉があったようだし、また江戸期にはふじみ(富士見・不死身)の言葉遊びから不死身を洒落て西行と言ったりもしたらしい。さらに民俗語としての「西行」は、各地を遍歴・漂泊する職人のことを指す。これらは旅をする人物として西行法師がいかに良く知られていたかを示すものだろう。

 「花の雪は富士見西行さくら哉」(「桜川」)


 結局冗長になってしまったな。
 ともあれ、最後まで読んでくれてありがとう。


西行寺無余涅槃
咎多き……



参考文献
 ・佐佐木信綱校訂『山家集』岩波書店1928
 ・西尾光一校注『撰集抄』岩波書店1970
 ・小島吉雄校注『山家集・金槐和歌集』(『日本古典文学大系』29岩波書店1961)
 ・目崎徳衛『西行』吉川弘文館1980
 ・野上豊一郎編『解註 謡曲全集』中央公論社1951
 ・中村幸彦校注『上田秋成集』(『日本古典文學大系』56岩波書店1959)
 ・田辺聖子『小倉百人一首』角川書店1987
 ・大岡信『新編折々の歌』朝日新聞社1992
 ・柳田國男「西行橋」『定本柳田國男集』筑摩書房1962
 ・柳田國男「神樹篇」『柳田國男全集』筑摩書房1990
 ・国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館1979
 ・宮田登編『日本伝説大系(五)』みずうみ書房1986
 ・神田より子他編『日本民俗大辞典』吉川弘文館2000
   ほか、文学、民俗学、歴史学の諸文献、『広辞苑』等の辞書・国語事典など

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