●蛇足の解説(天狗)の巻 IV   

第四 怨霊としての天狗

 今度は人間が化した天狗について、即ち増長した僧や恨みを持って死んだ人間が化したと言われる天狗達について述べよう。

 中世になると、強い怨念を持って死んだ者が天狗になるという考え方が生まれてくる。仏教の悪魔的存在の魔縁も、こうした怨霊の化した天狗と見なされるようになる。また怨霊が人に憑いたことを天狗憑きと称することもあった。

 こうした怨霊的要素を持った天狗として最も高名なのは、崇徳院だろうな。『保元物語』(鎌倉初期)によると、崇徳院は怨念の為に、経文に血で呪文を記し、生きながら天狗となったという。続いて『源平盛衰記』の「讃岐院事」や『沙石集』(無住道暁編、弘安六年(西暦1283年))にも同様な考え方が示されている。
 保元の乱に敗北した崇徳院は讃岐に流される。せめて、自らが写した経典だけでも都へ帰して欲しいと大乗経を送るが、後白河方によって突き返されてしまう。絶望した崇徳院は髪も爪も切らず、生きながら凄まじき姿へと変貌したという。院は「日本国の大魔縁となり、皇(すめらぎ)を取って民となし、民を皇となさん」と、舌の先を食いちぎり、その血を以て大乗経に呪詛の誓文を記して海に沈めたと伝えられる。また『源平盛衰記』によればその葬儀の際に、柩から血が溢れ出し、柩が置かれた石を真赤に染めたという。なお崇徳院の祟りの噂は、死後すぐに生じたようだ。既に後白河院の病気や平清盛の死についても、崇徳院の祟りのせいだと信じられていたようだ。後白河院や平氏は、讃岐院としていた崇徳上皇に「崇徳院」の名を送ったり、慰霊のための寺を建立したり、陵へ参拝するなど、崇徳院の御霊を鎮めるための行為を行っている。
 やがて肥大化した崇徳院の御霊は、魔界の天狗達を束ねる魔王としてイメージされていくことになる。これらのまとめとも言える記事が『太平記』(応安三~四年(西暦1370~71年)頃)にある。朝廷を恐れさせた崇徳院の御霊の、魔王・大天狗としての再登場でもある。巻二十七「雲景未来記事」では、南北朝の動乱は崇徳院、後鳥羽院、淳仁天皇(淡路廃帝)、後醍醐院や真済、頼豪、玄昉など不遇の僧侶、源為朝や井上皇后らが起こしたものだとしているのだ。御霊としても知られる非業の死を遂げた者達が勢揃いといった様相だな。いずれも怨霊として極めて著名だ。ここで天狗達の中心的存在たる崇徳院は金の鳶の姿で現れる。『太平記』にはこの他にも、巻二十五「宮方怨霊会六本杉事」に天狗と思しき怨霊の話が掲載されている。ここでは大塔宮護良親王を始めとする南朝方の怨霊が現れるのだが、その姿は嘴と長い翼を持つと表現されている。この姿はまさに天狗に他ならない。原文を引こう。
  「眼ハ如日月、光リ渡リ、觜長(ながう)シテ鳶ノ如クナル」
  「眼ノ光尋常(よのつね)ニ替テ左右ノ脇ヨリ長(ながき)翅(つばさ)生出タリ」

 また、これらの記事に依れば彼ら天狗道に堕ちた者には一日三度、熱い鉄を呑むという苦役が科せられるが、その代わりに世に兵乱をもたらすことも可能にする神通力を得るという。

 さて、平安時代の最も高名な御霊、菅原道真は雷神、即ち鬼の姿でイメージされていた。ところが、やや時代が下る崇徳院の頃になると、御霊・怨霊が天狗としてイメージされるようになった。これには理由があるのだ。つまり当時は、鬼への信仰よりも天狗に対する信仰が強くなっていたと言うことだ。そしてその原動力となったのが修験者や山伏といった連中だったと考えられる。呪術者の主流が陰陽師系統から、山岳密教や修験道の系統へと変化したと言うことでもある。
 また、先に記したように天狗の伝承を色濃く伝える『太平記』の作者が、児島法師という説がある。そしてこの児島法師とは、熊野修験道の分派の児島五流修験道に属した山伏だったとも伝えられる。つまり、『太平記』とはそもそも、山伏達の視点から見た物語でもあった可能性があるのだ。そこではこの世界のあらゆる災厄が天狗と結びついて語られる、一種の陰謀史観といったところだろうか。
 このことに関して、明治維新の際に朝廷が御霊を恐れて白峯神宮を建てたのは有名だな。創建はまさに戊辰戦争の最中の慶応四年(西暦1868年)だ。幕府や外国などより元身内の御霊の祟りの方が恐ろしかったという訳だな。この祭神はまさに崇徳院と淳仁天皇なのだから。最も、維新前に孝明天皇が、讃岐から京へ崇徳院の像を遷すことを計画してはいたらしいがな。

 また、先に述べた名のある大天狗達も、こうした怨霊と無関係ではない。例えば讃岐白峰の相模坊は崇徳院と関係が深い。謡曲「松山天狗」で相模坊と西行との仲立ちを務めるのが崇徳院の怨霊である。
  「抑(そもそ)もこれは、白峯に住んで年を経る、相模坊とはわが事なり。さても新院思はずも、この松山に
   崩御なる。常常参内申しつつ、御心を慰め申さんと、諸天狗を引き連れて、翼を竝べ数数に、この松山に
   飛び来たり、玉体を拝し奉り、逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し会稽を雪(すす)がせ申すべし」

 また上田秋成『雨月物語』(安永五年(西暦1776年)刊)「白峯」で西行法師の出会った崇徳院は、「相模」を配下に持つ讃岐の大天狗そのものであるように描かれている。後世の文学だが、一部を引いておこう。
  「近来の世の乱は朕のなす事(わざ)なり。生きてありし日より魔道にこゝろざしをかたぶけて、平治の乱を
   発(おこ)さしめ、死して猶朝家に祟をなす。見よ/\やがて天が下に大乱を生ぜしめん」 
  「終(つい)に大魔王となりて、三百余数の巨魁(かみ)となる。朕が眷属のなすところ、人の福(さいわい)
   を転(うつ)して禍とし、世の治るを見ては乱を発(おこ)さしむ」
 さらに、隠岐に流された後鳥羽院の怨霊を鎮める為に鎌倉鶴岡八幡宮内に建てられた新宮の背後には六本杉があり、その樹上には飯縄三郎の眷属が住み着いていたという話もある。

 ただ、こうした怨霊としての天狗が優勢になってくると、それまで独立した存在であった山々の天狗の影が薄くなってくる。天狗の世界が、単なる現世が反転したネガに過ぎなくなってしまうという面が否めない。現世で高位にあった者が天狗界でも高位に収まるという形がそれだな。
 最も、こうした天狗信仰を流布させた山伏達自身は、大天狗の配下の天狗達と同一視されてゆく。そして、一般における山伏姿の天狗のイメージを定着させていくわけだ。この広く流布したイメージは時代が下って怨霊色が薄れて行って消えることはなかったようだ。例えば室町時代の『御伽草子』の「天狗の内裏」の天狗は山伏的な性格は残しながらも、怨霊的要素を失い、むしろ鬼ヶ島の鬼といった雰囲気であり、他界にすむ妖怪として鬼と置き換え可能な状態であるとさえいえる。こうして、中世後期に怨霊思想を薄めた天狗は民間信仰へと浸透し、今日各地の伝説や昔話に残る天狗のイメージに近づいて行く。

 一方、恨みを持った御霊達に加え、高慢な僧侶が天狗となると言う話はよく知られている。当然鼻が高いのはその慢心を表すものだ。これら僧侶が化した天狗の存在は、仏教に敵対する天狗とも重なっている。密教の高僧達と対決した天狗の本体が僧であったという説話も多いのだ。なお、この鼻高天狗に対し顔が青く嘴を持つ天狗を烏天狗と言う。また犬の様な顔をした天狗を狗賓(ぐひん)と言う場合もあるらしい。鼻高天狗を大天狗、烏天狗を小天狗と呼ぶこともあるな。こうした驕慢な法師が天狗となるという考え方は、鎌倉時代に広がったと思われる。『平家物語』には次のような一節がある。
  「持戒のひじり、もしくは智者などの我れに過ぎたる者あらじと慢心起したる故に、仏にもならず悪道にも落ち
   ずしてかかる
天狗という物に成るなり」
 また室町末期から近世初期に成立したと考えられる幸若「未来記」にも同様な記述がある。
  「抑我等が異名を天狗といふいわれあり、むかしは人にてさふらひしが、仏法を能習ひ我より他に智者なしと
   大まんじんをおこすゆへ、仏にはならずして天狗道へおつるなり」
 『平家物語』の異本である『源平盛衰記』には大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗に転生し、無知驕慢の僧は畜生道に堕ちると記されている。こうなると、高僧、名僧も皆天狗になってしまうのだが………、実際各地の大天狗の前世は、あの名僧誰々である、というようなまことしやかな巷説が流布しているのだ。

 『今昔物語』や「是害坊絵巻」、『古事談』(源顕兼編、建暦二年~建保三年(西暦1212~1215年)頃成立)にもそうした話が収録されている。有名なのは文徳天皇の后であった染殿后(そめどののきさき)に関する伝説あろう。多少の相違はあるが、験力を持った行者が天狗となって染殿を悩ませたという話だ。この天狗は石山の行者だとか、柿本天狗だとか、さらに愛宕太郎坊とか紺青鬼とか様々な表現をされているが、元は法力を備えた高僧であったらしい。この僧は紀僧正真済(しんぜい)と伝えられる。
  「昔紀僧正真済、在生日、持我明呪、而今以邪執、故堕天狗道、着悩皇后」
     (『古事談』「三、相応為染殿后退天狗事」)
(※染殿に憑いた天狗を相応が降伏する話)
 真済は惟喬親王の真言系の護持僧であったのだが、対立する惟仁親王(後の清和天皇)の天台系の護持僧恵亮との呪術合戦に敗れ、惟喬親王は呪殺されてしまったという。真済は怒り狂い、魔縁となったと伝えられる。或いは、清和天皇の母に当たる染殿を犯し、死して天狗となったとも言う。この話には、験力を持った僧侶が天狗と化すという認識と、さらに恨みを持って死んだ者が天狗となるという両方の認識が表れているといえよう。また、この伝承において、天台僧に対立した真言宗の僧が天狗となったという点には、天台宗の関係者の影が見え隠れするな。
 なお、『今昔物語』の「染殿の后、天宮(てんぐ)の為に[女堯]乱(にょうらん)せられたる語」(巻二十本朝部付仏法、第七)は、やはり葛城山の聖人が染殿の美しさに迷い、死して異形のモノとなる話だ。本文中でそのモノは「鬼」と称されているが、表題にも有る通り、これは天狗としても認識されていたと考えられる。
 この他にも中世の文献には験者が死後に天狗となり、人々を悩ませたので祠を造って鎮めたという記事が数多く見られる。
 例えば、日吉神社内など比叡山の影響下にある「護因社」に祀られている護因の像について、「護因社。僧形。觜有リ。樹下僧夏堂衆、ス子聖(すねひじり)ナリ。行力巨多ナリ」(『秘密記』)と伝えられる。護因は通力を備えた僧侶で、「没後ニ人ヲ煩ハス事間断無」(『耀天記』)かったため、死後に神と祀られたとされるが、その姿はまさに天狗に他ならない。後に述べる僧侶が化した天狗もそうだが、通力を持つと信じられた山伏や密教行者などの山岳修行者の持っていた強烈な畏怖のイメージがこうした天狗の伝承に連なっているのだろう。
 また、異常な力を持つ者についてだが、百済の官人日羅(にちら)についても天狗との関わりが伝えられている。日羅は敏達天皇十二年(西暦563年)七月に任那復興に関連して百済から来朝、様々な献策をするが、共に来朝した百済側の使者らによって暗殺される。『日本書紀』によれば、初め暗殺を試みたとき、日羅の身に火炎の如き光があり、恐れて果たせず、十二月晦日にその光が失われるのを待って暗殺したという。ところが日羅は一度生き返り、暗殺者などについて告げたという。この他にも聖徳太子と関連づけた奇瑞が伝えられる(『聖徳太子伝暦』)など、異常な力を持っていたとされる人物である。そしてこの日羅が、死後に天狗の首領格である愛宕山太郎坊となったとする伝承があるのだ。愛宕の太郎坊には随分沢山の本体があることになるのだが………。確かに「是害坊絵巻」の中にも、是害坊を受け入れる日本の愛宕山の大天狗の名前を「日羅坊」としているものがあるな。最もこの伝承がいつ頃から語られ出したのかはよく分からない。おそらく愛宕山の勝軍地蔵の信仰などと併せて広まったものだろう。

 ここで付け加えておこう。歴史的に考えると、むしろこうした法師の化す天狗の方が古く、中世になって登場した国家を揺るがすような御霊系の天狗に先行していると考えられているがな。また、天狗が山伏姿として描かれるのは、山伏の特異な所作風体と、山岳修行によって験力を得たと増長している様子を他の宗教者が「増長慢に堕ちた天狗だ」と評した事から来ているという説もあるぞ。

 天狗には女性もいたらしい。先に述べた天逆毎姫も女性だったが、天狗には男女ともに有るという認識があったらしい。例えば『源平盛衰記』の智巻第八「法皇三井灌頂の事」には天狗についてまとまった記事があるが、そこには次のように記されている。
  「当知(まさにしるべし)魔王は一切衆生の第六の意識かえりて魔王となる。故に魔形も又一切衆生の形に
   似たり。されば尼法師の驕慢は、天狗に成たる形も尼天狗法師天狗にて侍(はべる)也。頬(つら)は天狗
   に似たれども、頭は尼法師也。左右の手に羽は生たれ共、身には衣に似たる物を著(き)て、肩には袈裟
   に似たる物を懸たり。男驕慢は天狗と成りぬれば、頬こそ天狗に似たれ共、頭には烏帽子冠を著たり。二
   の手には羽生たれ共、身には水干袴、直垂、狩衣なんどに似たる物を著たり。女の驕慢は天狗と成ぬれば、
   頭にかづら懸て紅粉白物の様なるものを頬につけたり。大眉作てかね黒なる者もあり。紅の袴に薄衣かづ
   きて大虚(おおぞら)を飛もあり」
 後白河法皇はその権力志向や狡猾な政治手腕から、天下の大天狗と称された。源平争乱期を扱う書物の表現にある、天狗にはこうした当時の権力者に対する皮肉が込められていたことも忘れてはならない。


  
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 ◎おまけの絵は「風神少女」。

あっ、ネタはっけーん!
魔理沙「さあ、風神剣をだせ!約束は今作ったが」
文   「だ~か~ら~、そんなもの持ってませんってば」
魔理沙「おかしいな、パチュリーから聞いたんだが」
    「ああそうだ、胴体かっ捌くと、中から立派な剣が―――」
文   「それ、風神剣じゃないです~」
魔理沙「あれ?剣と合体させちまうんだったっけ?」
文   「………誰かこの人を止めて(泣)」


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