●蛇足の解説(天狗)の巻 V
第五 他界の天狗 最後に、ちょっと毛色が違うが、民俗伝承として良く語られる天狗、異界で社会を持つ天狗達、山で出会ったり、神隠しを行う他界から来訪する天狗について見てみよう。 近世になると、天狗の神通力も天狗に対する畏怖も衰えてくるようだ。最早天狗達は国家天下の転覆を謀ることもなく、むしろ滑稽な役割を果たすようになる。昔話などでは欺され役でさえある。 だが江戸時代頃までは神秘性は生きていた。江戸時代までに成立したとされる『天狗経』には、全国の山々に名の知られた四十八の大天狗と、十二万五千五百の天狗が棲んでいると記されている。特に天狗に攫われて異世界へ行ったというような話は数多く残されている。神隠しと称される行方不明事件の首謀者として、天狗は鬼、狐と並んでよく知られているのだ。天狗隠しという言葉もある。これについては、天狗松や天狗の止木(とまりぎ)と呼ばれる一種の神の依代と結びつけて語られることも多い。天狗に攫われた子供や若者は、突然姿を消し、数ヶ月あるいは数年後にあたかも空中から現れたかのように突然戻ってくるのだ。柳田國男の報告では、石川県では天狗攫いにあった人を探す際に、「鯖喰った伊右衛門やーい」と唱えたという。天狗は鯖を嫌うからと説明されたそうだが、おそらく元々は魚の鯖ではなく、神などに対する供物であるサバ(生飯・散飯)に関連して唱えられたものかと思う。 また、特に江戸時代の知識人達はこうして連れて行かれた先の異界に興味を持っていたらしい。随筆なんかに良く取り上げられているんだ。最も有名なのは国学者の平田篤胤だろう。正直天狗に攫われた者達の証言は、想像力に乏しく、面白くないと私は思うのだがな。 松浦静山『甲子夜話』には子供の頃に天狗に攫われたという男の体験が記されている。空を飛んで諸国を巡ったとか、宴会や猿楽があったとか、一ノ谷の源平合戦の様子を見せられたとか言う話だ。天狗の階級や祭礼などの証言も少しはあるが、余り突飛な事は言っていないようだ。木の葉天狗は年経た狼の変化で白狼(はくろう)と言う、とか恐山に狗賓堂があって祭礼を行うとかの伝承はここで言及されたものらしいな。他にも天狗界を行き来して江戸中で評判になったという神域四郎兵衛正清についての聞き書きを、稲田喜蔵が『壺蘆圃雑記』に記している。そこには、空を飛行するのには翼を使わず飛び上がり、三百里は飛べる。とか天狗同士は争わず、殺人術は習わないが不敗の術があるので、どんな武器に対しても決して敗れることはない。とか天狗界の風俗が記されている。平田篤胤が執心したのは寅吉という少年の体験談だ。平田は『仙境異聞』にこれをまとめている。何を喰うとか三千年生きる場合があるとか、羽団扇を用いて空を飛ぶとか色々天狗界について記されている。さらに、羽団扇は孔雀の冠毛を飛ばす武器だとか鉄砲を持っているとかも言っているらしい。これは有名な話だし、国学やら神道との関連もあるのだが………、私はこの話が余り好きではないのでな、済まないが興味のある方は色々書籍もあるだろうから調べてみて呉れ給え。 これらの話を読んでいると、狐や鬼に拐かされた場合も同様だが、長生きだとかひもじくなかったとか、神隠しという状況に逃れざるを得なかった貧しい子供や、少し愚鈍な人の切ない願いが現れているようで、私はむしろ暗澹たる気分になってしまう。とてもかつての国学者達のように無邪気には考えられないな。まあ、天狗隠しの場合は、戻ってくる場合も多いようだ。この辺りが鬼と異なる部分だな。おそらく鬼は食糧として人を攫うと認識されていたのだろう。 一方、民間伝承としては、山などで天狗の起こす現象と出会ったということが数多く知られている。山中他界などともいわれるが、人々の対する畏怖が天狗という共同幻想を生んだとも言えるな。 例えばどこからともなく石がばらばらと飛んでくる天狗礫(つぶて)、誰もいないはずの深山幽谷から大勢の高笑いが聞こえる天狗笑い、木の倒れる音だけして音がしたと思われる場所に行っても何もない天狗倒し、別名天狗なめしなどが有名だな。また、突然吹き下ろしてくる旋風のことを天狗風と言ったりする。他にも天狗囃子・天狗のお神楽や天狗太鼓、天狗ゆすりなどの怪異も伝えられている。天狗笑いに似ているが、誰もいないはずの深山や森の中で突然声を掛けられるという怪異もある。これも天狗によるものとされる場合が多い。もう気付いたかも知れないが、これが先に述べた何々坊やら白峯の話と異なるのは、天狗そのものは姿を現さないということだ。実在するのは現象だけなのだ。つまり、不思議な現象の説明大系として天狗が機能しているという訳なのだよ。むしろこうした怪音現象こそが、民間の天狗の本体であった可能性が高い。まあ、相州や東海地方の天狗火のように視覚的な現象もあるがな。やはりこの場合も天狗そのものの具体的イメージは乏しいと言って良いと思う。そういう訳だから、修験者やら天狗の伝承とは異なる社会背景を持つ所では同じ現象でも、古杣(ふるそま)だとか空木(そらき)返しだとか異なる名称を持つ場合があるのだ。 これが妖怪現象の複雑なところだな。 ここで天狗に関わる民間の風習を紹介しておこう。それは、山に入る者達が、天狗による怪異を避けるために行ったという狗賓餅と呼ばれる風習だ。これなどは一種の山の神への供え物と言って良いだろう。 また、民間では山中など人里離れた場所にある得体の知れないものに、天狗の何々という名称をつけることが良くある。そのうち一つを紹介しておこう。それは「天狗麦飯」だ。これは藍藻類の藻や糸状菌の塊である。淡い灰緑色や褐色の粘質粒状で、笹に覆われた地面に生じる。古くから食用とされ、飯砂、味噌土などとも呼ばれる。本州の火山の高地、戸隠、黒姫、飯縄、浅間などに生える。これらの地はいずれも山岳信仰に縁が深い、天狗の名が冠されたのも頷けよう。 因みに、妖怪画で有名な鳥山石燕の一連の『百鬼夜行』シリーズには天狗に関して三つの絵がある。「天狗」、「天狗礫」、「襟立衣」の三つだ。特に「天狗」は最初の巻(『画図百鬼夜行 陰』)の第二番目に描かれている。まあ有名な妖怪だからな。 だが、結局こうした民俗の背景となっていたのは、山伏やら修験者に代表される神仏混淆の山岳信仰だったのだ。だから、明治以降に山岳信仰が衰えると共に、天狗に対して残っていた信仰やら伝承やらも、急速に姿を消してしまった。外の世界では天狗は最早幻想なのだよ。 *** 結び 今回は、天狗について、五つに分けてその特徴を考えてみた。 「天狗」とは元来大陸で天文現象に当てられた名称であったが、我が国でもこれを取り入れた。この「原天狗」は固有の信仰や仏教の影響を受けて次第に変容していったのが、今日まで伝わる民俗的な天狗であろう。 天狗には大きく分けると、仏法の妨げをなす存在として語られるもの、山岳の神と同一視されたもの、恨みを残してこの世を去った人間や、驕慢な僧侶が死後に化したと見なされたもの、そして民間に伝わる天狗がある。民間に伝わる天狗像は、神隠しなど他界と里を行き来する存在として、あるいは人里離れた場所での怪現象の説明体系として伝承された来たと考えられる。 *** 参考 最後に、参考までに先人によって天狗はどのように考えられてきたのか、いくつか例を示しておこう。 まず江戸期の知識人の認識を示そう。先にも触れた滝沢馬琴の『烹雑の記』でも良いのだが、良くまとめられているものに宝暦四年(西暦1754年)の『竜宮船』二の記述がある。それを引用しておこう。「天狗といふもの上古には沙汰なきものにて、中古より国の所々名山高山などに住む。其形人のごとくにして、高き鼻鳥の喙肉の翅有りて、能(よく)飛行すと。しかれどもさだかに見たる人も稀なり。世の中凶き事あらんとする時はあらはれ、若(もし)また高慢の心有る人をば、つれ行きて引き裂きなどして、樹の枝もかけおくことありとぞ」。この後山岡元隣、新井白石らの例話や解説を引用し大陸の天狗と相違することを述べている。大陸の天狗と区別した上で、一般的な天狗のイメージを示していると考えられる。 次に、民俗学者の見方の一端も示しておこう。我が国の民俗学の泰斗柳田國男は「天狗の話」で天狗の特徴として次の点を挙げている。即ち一、清浄を愛すること、二、執着が強いこと、三、復讐を好むこと、四、任侠気質である。彼はこれらを「儒教に染め返さぬ武士道」と定義し、この道徳が中庸に留まれば武士道で、極端に走れば天狗道だと述べている。この気質は中世の修験道の持っていたものと言うこともできる。柳田は天狗、山人、山童などの山の妖怪は、里人とは異なる社会を営む異人が山中に実在し、それが妖怪現象として伝わったものだ考えていたようだ。 それでは、辞書などに記される今日の共通認識についても記しておこう。以下に述べることが定説であると考えて良いだろう。 天狗とは、天上・深山などに棲まうとされる妖怪を指す。山の神の霊威を母体とし、御霊信仰を併せ、また修験者のイメージを取り込んでその姿を具現化したものだ。大陸では流星あるいは獣の一種として、仏教では夜叉として認識された存在が本邦で修験道などの影響下で独自な存在へと変化したものだ。また、民間の天狗像は、中世まで流布していた山の鬼を原型として普及したとも言える。 天狗の概念は時代によって変化したが、一般的に言って三種に分けられる。第一は勧善懲悪や仏法の守護を担う山神(これは私の論の第二「山神としての天狗」に相当する)であり、第二は驕慢な法師、堕落した僧侶の変化としての天狗(本論の第一「夜叉としての天狗」の一部と第三「怨霊としての天狗」の後半部に相当する)、第三は怨恨や憤怒を現世に残したものの化したもの(本論の第三「怨霊としての天狗」前半部に相当する)である。天狗を悪魔や悪戯者と解する場合はこの第二第三種のものを指すのだという。 その性質としては次のようなことが挙げられる。一般に山伏姿で赤い顔をして鼻高く、翼と長い爪を持つ。金剛杖・太刀・羽団扇を持ち、飛行自在、神通力を有す。祭礼行列の先頭を行く猿田彦も天狗と考えられることもある。また、これとは別種に小天狗・烏天狗と称して鳥の喙を持つ鳥類型の天狗も伝えられる。これらの姿は、時代を経るに従って次第に形成されたものと考えられている。時代的な変遷としては、鳥類天狗が古く、僧侶の化した天狗を経て、山伏型の天狗が定着したと思われる。 *** おわりに 最初考えていたより、長いものになってしまった。色々雑多な情報を詰め込みすぎて、返って分かりにくくなってしまったのではないかと危惧する次第だ。 ともあれ最後まで目を通してくれて有り難う。 *** |
参考文献 ・笹間良彦『日本未確認生物事典』柏美術出版1994 ・荒俣宏『怪物の友』集英社1994 ・小松和彦『神隠し』弘文館1991 ・小松和彦『日本妖怪異聞録』小学館1995 ・小松和彦ほか『日本民俗文化大系4 神と仏』小学館1983 ・山本ひろ子『異神』筑摩書房2003 ・柳田國男『妖怪談義』講談社1977 ・柳田國男『遠野物語』角川書店1955 ・柳田國男『山の人生』(『柳田國男全集』筑摩書房) ・多田克己『百鬼解読』講談社1999 ・宮田登・小松和彦他『日本異界絵巻』河出書房新社1990 ・岩井宏實『暮しの中の妖怪たち』河出書房新社1990 ・岩井宏實監修・近藤雅樹編『図説日本の妖怪』河出書房新社1990 ・小松和彦『妖怪学新考』小学館2000 ・谷川健一『魔の系譜』講談社1984 ・湯本豪一『妖怪と楽しく遊ぶ本』河出書房新社2002 ・豊島泰国『図説日本呪術全書』原書房1998 ・阿部正路『にっぽん妖怪の謎』東京ベストセラーズ1992 ・荒俣宏『世界大博物図鑑』平凡社1988 ・高田衛監修『鳥山石燕 画図百鬼夜行』国書刊行会1992 ・伊藤清司『怪奇鳥獣図巻』工作舎2001 ・寺島良安『和漢三才図絵』平凡社1985 ・滝沢馬琴『烹雑の記』(『日本随筆大成』21吉川弘文館1994) ・野上豊一郎編『解註 謡曲全集』中央公論社1951- ・西川杏太郎『日本の美術62 舞楽面』至文堂1972 ・上原昭一『日本の美術233 伎楽面』至文堂1985 ・今泉淑夫編『日本仏教史辞典』吉川弘文館1999 ・国史大辞典編集委員会編『國史大辞典』吉川弘文館1984 ・大塚民俗学会編『日本民俗事典』弘文堂1972 ・神田より子他編『日本民俗大辞典』吉川弘文館2000 ・宮地直一・佐伯有義『神道大辞典』平凡社1937 ・坂本太郎他校注『日本書紀』(『日本古典文學大系』67岩波書店1965) ・池上洵一編『今昔物語』岩波書店2001 ・高木市之助他校注『平家物語』(『日本古典文學大系』32,33岩波書店1959) ・後藤丹治他校注『太平記』(『日本古典文學大系』35,36岩波書店1960) ・中村幸彦校注『上田秋成集』(『日本古典文學大系』56岩波書店1959) ・司馬遷『史記』(『新釈漢文大系』明治書院1973) その他 『広辞苑』ほかの漢和、国語辞典、歴史・文学史に関する諸書籍 |
◎おまけの絵は「天狗覚書−慧音と文」。
「さあ、こちらは気にせずに続けて下さい」
「うう、……………気が散る」