○平成20年2月
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鬼神に横道、無きものを
謡曲「大江山」より
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上白沢慧音 | 伊吹萃香 |
上白沢慧音 | :冬になったかと思ったら、もう節分ね。 :――さて、薄くなっていないで出ていらっしゃいな。私は鬼遣らいはしないから。 |
伊吹萃香 | :あら、やっぱり分かってた? :そう言えば此処には柊や笊も無いけど、貴女はそうした風習はしないのかしら? |
上白沢慧音 | :はは。私自身が護符みたいなものだからな。本当に悪いものは此処には入ってこれないんだ。 |
伊吹萃香 | :ふーん。じゃ、遠慮無く。 |
上白沢慧音 | :ふふふ。災難だな。 |
伊吹萃香 | :そーそー、最近おもしろがって誰も彼も豆撒きをするのよねー。 |
上白沢慧音 | :鬼は普段完全無敵なんだから、一日くらい良いのではないか? |
伊吹萃香 | :むー。そうは言っても、逐われるのは嫌なものよ。まったくもー。 :そもそも悪しきモノを追い払っていたのは私たちなのにー。 |
上白沢慧音 | :確かにな。角のある恐ろしい面相の方相氏が、目に見えぬ邪気を祓うのが本来の姿だったか。 :……追うモノが逐われるモノになってしまったのだな。 |
伊吹萃香 | :全く、人は目に見えるものしか信じられないのかしら。 |
上白沢慧音 | :ああ、人はそなた達のように強くはないから。何か、確かなものが欲しいのだ……。 |
伊吹萃香 | :……………。 :私たちの力は大地の力、人間を見守る祖霊の力。そして人間を凌駕する大自然の荒ぶる力。 :疫病を祓い、福をもたらす。それを司るのもまた、私たちの役割だったのに。 :勿論、人の心の闇に潜み、人を攫うのも私たちだけれどね、うふふ。 :私たちは人ならざる“力”の象徴だったのよ。 |
上白沢慧音 | :そう、そして人々は様々な負の要素をそこへ投影していった……。 :災害、疫病、――そして同じ人間さえも。 |
伊吹萃香 | :そうね、謂わば「鬼」は人が作り上げたものなのよ。 :でも……。だからこそ、人の生きる場所には常に私たちが居た。畏れられてはいても、其処には確かな絆があった。 |
上白沢慧音 | :絆、か。 |
伊吹萃香 | :私たちが居ればこそ、人は本来対抗手段を持たない様々な災厄に“立ち向かう”ことができたの。私たちと人間は謂わば光と影、陽と陰、どちらが欠けても立ち行かぬ。そんな関係の筈だった。 :それなのに、いつの頃からだろうか。人は私たちを騙そうとするようになった。私たちを欺き、排除し、滅ぼそうとした。はは、自分の半身みたいなものなのにね……。 :人と私たちとの間の信頼は失われ、古き絆も絶え果てた……。 |
上白沢慧音 | :―――――。 :人は弱い生き物だ。寿命も短く力も弱い。そんな人間が人外に対抗するための唯一の武器が智慧だったのだ。だから……。 |
伊吹萃香 | :確かにそうかもしれない。嘘を吐くって事だけならね。 :でもね。そうした狡猾さはすぐに暴走する。自分たちと異質の人々を鬼として排除して行く時、それは最早弱き人の小さな武器では無いわ。人の狭量さと傲慢さを示すものに他ならないの。 :……そして、私たちとの絆さえ、人間達はいとも容易く捨て去ったのよ。 |
上白沢慧音 | :それを最も良く示す説話が大江山という訳か。 :ふむ。大江山か。能の演目としても知られているな。謡曲「大江山」は酒天童子絵巻や御伽草子を元に宮増(一説には世阿弥)が作ったと言われているが……。 |
伊吹萃香 | :ええ、かの事件が起こったのは一条天皇の世、正暦三年(西暦992年)とも長徳元年(西暦995年)とも言われているわね。 :酒呑童子は比叡の山に遙か昔より住まう古き神だったの。それが侵入してきた蕃神を奉ずる者達に逐われたのよ。以後、霞に紛れ雲に乗り――、各地を彷徨い、流浪の果てに漸く見つけた安住の地も……。 |
上白沢慧音 | :―――――。 |
伊吹萃香 | :酒呑童子は山伏姿で訪れた頼光一行を友人として扱ったの。自分の生い立ちを話す程に信用して……。それなのに。それなのに、彼等は瞞して毒酒を飲ませた上で酒呑童子らを虐殺する。 :―――――。 :「……情なしとよ客僧たち、偽りあらじといひつるに」 :「鬼神に横道なきものを……」 |
上白沢慧音 | :……哀しき言葉だな。 |
伊吹萃香 | :これは信頼を裏切った人間への告発の言葉。哀しみに満ちた魂の叫び。 :「大江山」ではこの叫びすら人間の心には届かない。彼等は言う「ああ、偽りだ。だから何だと?」、「お前達の住む場所などこの国には有りはしない」、「勅命を受けた私等こそが正義、目的の為ならばどんな手段を取っても許されるのだ」とね。 |
上白沢慧音 | :「山河草木震動して、光満ち来る鬼の眼、ただ日月の天つ星、照り輝きてさながらに……」 |
伊吹萃香 | :酒呑童子は異能の人間にして古き山の神、龍神の血を引く水と豊饒の土着神。荒ぶる大自然の象徴。人はそれを排除し、殺戮したのよ。 :そう、人間達は大地や山々への畏れを忘れてしまった。 |
上白沢慧音 | :――そうかも知れないな。きっと自然に対する敬意が薄れてしまったのだろう。 |
伊吹萃香 | :大地への畏れを忘れて生きるなど!! 何たる傲岸。 :……………。人は嘘ばかり吐く。だから私たちは人間を見限ったんだ。 :いつか年月は過ぎ行き、私たちは忘れ去られる。それで良いと……。 |
上白沢慧音 | :人間は―私もそうだが―、弱くて臆病で卑怯で狡い。人間は弱い存在なのだ。 :だから人は嘘をつく。神さえも騙そうとする。 :だがな、それはそれで悲しいものだ。その行為の代償として、人は“必ず”豊かな楽園を逐われるのだから。浦島子の物語も、龍宮淵の物語も、皆そうではないか。人は楽園に留まることは叶わないのだ……。 |
伊吹萃香 | :……………。 |
上白沢慧音 | :だが、そなたは此処へ戻ってきたではないか。 :もう一度、人間との関わりを持とうと思ったのではないのか? |
伊吹萃香 | :え、うん。あ、いや。 :それは、多分私が変わっているだけなんだ。 |
上白沢慧音 | :この地にはまだ“向こう側”で失われたものがある。 :例え人の心は変わろうと……。 |
伊吹萃香 | :それは幻想郷でも遙か昔に失われてしまった。 :そう、だからね、幻想郷でも私には居場所がないの。 |
上白沢慧音 | :そんなことはない。それは違う。 :いつでもそなたを迎え入れてくれる場所があるはずだ。 |
伊吹萃香 | :え? |
上白沢慧音 | :あの神社だよ。 :それに多分……。いや、今は止めておこう。 |
伊吹萃香 | :絶たれた絆を、再び結ぶことは出来るのかしら? :失われた信頼を、もう一度取り戻すことは出来るのかしら? |
上白沢慧音 | :人は変わってしまう。でも、だからこそ、希望も持てるのではないか? |
伊吹萃香 | :変わる、か。 |
上白沢慧音 | :物事は悪い方向にだけ変わるとは限らない。 |
伊吹萃香 | :ふふっ。あはははは。 :くっく、来年の事さえ分かりはしないのに。 :……………、ありがとう。 :さぁて、神社で一杯やってこようかな。 |
上白沢慧音 | :―――――。 |
伊吹萃香 | :じゃっ :かつて坐(いま)しし、捨て童子〜。疫癘払ひし、鬼神(かみ)ぞかし♪ :人に騙され謀られ。霞に紛れ、雲に乗り、此世を逐はれし山の神♪ :失はれし力、今何処♪ |
参考文献
・野上豊一郎『謡曲全集』(5)(中央公論社1951)
・佐竹昭広『酒呑童子異聞』岩波同時代ライブラリー1992
・馬場あき子『鬼の研究』ちくま文庫1988
・小松和彦『日本妖怪異聞録』小学館ライブラリー1995
・小松和彦『これは「民俗学」ではない』(福武書店1989)
・小松和彦『悪霊論』(青土社1989)
Special Thanks
・祀色工房(蒼桐大紀様)>「天零萃夢」
参考(サイト内)
・追儺の解説
・伊吹萃香(絵と解説)
・春来る鬼(絵と解説)