建築探偵 京師迷走



其之二 六道之辻篇


  ★ さて次なるは……、彼岸と此岸を結ぶ特異点。六道之辻と小野篁ゆかりの地といたしましょう。 ☆


 ※今回のコースと鬼神妖怪との関わりなど (東方project関連含む)

 多くの怪異な伝説に彩られた小野篁ゆかりの地を見てみることにしましょう。

 1)六道之辻
 京都は周囲を「異界」に囲まれた都市でした。否、聖なる王都としてのアイデンティティを主張するために、「異界」を周囲に作りだしたと言うべきでしょう。
 その中でも、葬送の地は「異界」として京の域外へと排除されました。西の化野、北の蓮台野(紫野、平野、内野など)、東の鳥辺野に代表される曠野(こうや=荒野)がそうした葬送の場所とされました。山のふもとの曠野で死骸は捨てられ、あるいは焼かれたのです。京都は死者に囲まれた都市でもあるのです。
 そして、そうした死の世界との境界が“六道の辻”なのです。そこは生と死の境界であり、人々が最も怖れた死後の世界、地獄への入り口でもあったのです。
 この地に幽霊が飴を買って子供を育てるという“子育て幽霊”の物語が伝えられているのも、こうした背景があったからでしょう。

 2)六道珍皇寺と冥界通の井戸
 平安時代の公卿、小野篁は奇怪な伝説に彩られています。彼は夜な夜な冥界へと下り、地獄の冥官となって閻魔大王に仕えていたというのです。
 このとき篁は六道珍皇寺の井戸を通って冥界へと赴いたとされるのです。この珍皇寺は、鳥辺野への途中にあるという位置関係からか、お盆の精霊迎えの行事が盛んです。

 3)矢田寺と送り鐘
 小野篁に地獄を案内された僧が開いたと伝えられるのが矢田寺(矢田地蔵)です。ここには珍皇寺の迎え鐘と対になる送り鐘があります。ここも盆の精霊迎えの行事で知られます。
 また、矢田寺と同じような縁起を伝えた寺院が嵯峨にもあり、かつてそこには地獄からの出口(生の六道)となった井戸があったと言います。
 なお、小野篁の冥界(地獄)下りが広く知られていたためか、矢田寺ばかりでなく、京都の街道口に祀られる地蔵も小野篁作と伝えられています。地蔵は境界を護る仏であり、地獄の衆生を救う存在でもあるのです。


     *拙い写真しか無くて申し訳ないです。

 まずは鴨川を越え、松原通を東へと向かいます。
 松原通はかつては京のメインストリート(旧五条通り)でした。この道はまた、洛中から葬送の地である鳥辺野へと至る死者の道でもありました。
 なお、鳥辺山の麓の鳥辺野は、西の化野、北の蓮台野(紫野)と並ぶ京の葬送の場所でした。

 それを象徴する場所がこの「六道の辻」です。

 ここは六道輪廻の交差点、生と死、此岸と彼岸の境界とされた所なのです。そして一般的にはより具体的に、「地獄への入口」と見なされていたのでしょう。

 右の写真は、松原通西轆轤町の西福寺の傍らにある「六道之辻」碑です。

 六道の辻とかや、げに恐ろしやこの道は、冥土に通うなるものを、心細鳥辺山、煙の末も薄霞む
         (謡曲『熊野』より)
六道之辻の碑
 その西福寺ですが、右の写真からもうかがえるように、弘法大師が創建したという地蔵堂が前身であると言います。
 壇林皇后(嵯峨天皇妃)や後白河法皇の尊崇を受けたとも伝えています。

 先に述べたように、六道の辻は地獄の入口と見なされていました。そのために、地獄で衆生を救う仏である地蔵が祀られたのでしょう。また、境界を護持する仏としての意味もあるかも知れません。
桂光山西福寺
 さて、異界を求めて六道の辻を訪れたなら、外せないアイテムが「幽霊子育飴」です。

 六道の辻近くの「みなとや幽霊子育飴本舗」で購入することができます。この飴の由来となっている物語は、所謂「子育て幽霊」という伝説の一つです。とは言え、実際に飴を買うことができるというのは中々面白いものです。
 同店が頒布している飴の「由来」には次のように記されています。

 今は昔、慶長四年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし妻の産みたる児にてありき、然るに其の当時夜な/\飴を買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。此の児八才にて僧となり修行怠らず成長の後遂に、高名な僧になる。寛文六年三月十五日六十八才にて遷化し給う

 こんな物語が伝えられたのも、この地が鳥辺野(古い葬送の場所)へと至る通り道であったからでしょう。

 左の写真は現在売られている飴の包みです。包みだけでなく、中身の飴も昔風の素朴なもので、中々美味しいです(ただし、高温には注意しないと融けてしまいます!)。

 お店の所在地は東山区松原通東大路西入ル(珍皇寺よりすぐ)です。
みなとや子育飴本舗

幽霊子育飴

 さていよいよ本命の六道珍皇寺です。

 臨済宗建仁寺派に属する寺院で、正式には大椿山六道珍皇寺と言います。別称として愛宕念仏寺、愛宕寺、六道さんなどがあります。

 右の写真は境内への入り口です。
 「小野篁卿旧跡」、「六道の辻」の石碑が立てられています。
 かつては、この寺の門前あたりを「六道の辻」と称しており、そのために「六道」の名が付いたと考えられています。
珍皇寺門前
 寺伝では、慶俊僧都の開基として宝皇寺あるいは鳥戸寺と称したと言います。また、空海が慶俊に師事したと言われることから、長く東寺の管轄下にありましたが、14世紀の再興時に建仁寺の末寺となったそうです。
 平安遷都の際に鳥辺野を庶民の葬所とし、引導誦経して送ったために六道と称すとの説もあります。

 実は文献に現れる「珍皇寺」、「愛宕寺」、「念仏寺」の関係には不明な点もあり、同一の寺かどうかについても異論があります。
 ちなみに、嵯峨野の愛宕念仏寺は、近年近隣の弓矢町から移転したものです。
珍皇寺本堂
 小野篁はこの寺院の檀越となり、堂塔伽藍を造営したと伝えられます(寺そのものが小野篁建立とされる場合もあります)。

 門を入ると、正面に本堂、右手に閻魔堂と鐘楼、左手に地蔵堂があります。
 右の写真が閻魔堂(篁堂)で、中には閻魔大王像小野篁像(等身大!)が祀られています。閻魔大王像は小野篁作と伝えられています。
珍皇寺閻魔堂
 普段、閻魔堂の扉は閉ざされていますが、格子の間から内部を拝見することができます。右に小野篁像、その下に閻魔大王像の写真を掲げておきます。

 小野篁は、延暦二十一年(西暦802年)に生まれ、仁寿二年(西暦852年)に没した平安前期の公卿です。
 小野妹子の子孫にあたり、小野小町や小野道風は彼の孫に当たります。参議まで上りましたが、文人としても知られます。非常に奔放な性格だったらしく、問題を起こして隠岐に流されたりもしています。
 野宰相、野狂などと呼ばれたのも、その性格からでしょう。
珍皇寺閻魔堂小野篁像
 この小野篁には様々な逸話が残されています。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、『江談抄』、『発心集』などには篁に関する多くの逸話が記されています。
 その有名なものが、井戸を通って冥界へ下り、冥官となって閻魔大王に仕えていたという逸話でしょう(『今昔物語』の「小野篁、情けによりて西三条の大臣を助けたる語」ほか)。小野篁は昼間は朝廷に仕え、夜は亡者を裁く冥府の閻魔王に仕えていたというのです。
 『今昔物語』に掲載された物語の内容は、篁がかつて恩を受けた藤原良相が死んだ際に、閻魔に口添えして死から救ったというものです。

 篁はただ人にも非ざりけり、閻魔王宮の臣なりけり
珍皇寺閻魔堂閻魔座像
 小野篁が冥界へ趣く際に、通路として使用した井戸が「小野篁冥土通いの井戸」として、現在も珍皇寺境内に残されています。
 非公開ではありますが、本堂脇の小さな窓から覗く形で見ることができます(右の写真、中央奥に竹で蓋がされているのが分かるでしょうか?)。

 小野篁は閻王の化身にして、常に冥府に往来し給ふといひて、五條(今の松原通りなり)の東に死の六道、上嵯峨に生の六道といふは、出入の穴有し所なりと伝ふ (『閑田耕筆』より)

 冥界との行き来の物語は、既に平安末期には広く知られていたようで、上記『今昔物語』や『江談抄』に加え、『色葉字類抄』(平安末期の辞書)には、冥官の装束が珍皇寺の宝蔵に残されているとあります。
小野篁冥土通いの井戸
 閻魔堂の隣にあるのが鐘楼です。
 この中の鐘が有名な「迎え鐘」です。窓も含め全体が完全に覆われており、正面の穴から出ている綱を引くことで鐘を撞きます。
 なんでも鐘の下には穴があって冥界へ通じており、中を見てはいけないそうです。

 珍皇寺では、8月7日から10日にかけて、精霊迎えの「六道まいり」が行われ、大勢の人でにぎわいます。

 この時、先祖の霊は高野槇の葉に宿るというのですが、小野篁が井戸を通って冥界へ下る際にも、井戸の側の高野槇の穂先を伝って降りたそうです。
珍皇寺鐘楼
 さて、生と死の境を越えて行き来した化人とでも言うべき小野篁には、境界性と関わる属性が付与されています。例えば、平安末〜鎌倉初期の歌物語『篁物語』や鴨長明『発心集』では、腹違いの妹との悲恋の物語と亡霊譚が語られています。この内容は道祖神の由来伝説と類似点を持ち、六道の辻に立つ篁の境界性をうかがわせるものと言えましょう。


 六道珍皇寺では、お盆の時期(8月7日〜10日の盂蘭盆会)には閻魔堂の扉が開かれ、小野篁像や閻魔大王像が公開されます。また、地獄極楽を描いた十界之図も境内で公開されます。
 かつては日本各地で行われていたであろう盆行事の風景を、今でも残す珍しい例だと思います。
 お盆の時期に時間があれば、是非とも訪れてみたい所です。

 六道珍皇寺の所在地は、東山区松原通東大路西入ル(清水寺への入り口、清水道バス停から行くのが良いでしょう)です。
六道珍皇寺門前の石碑



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