建築探偵 京師迷走



其之二 六道之辻篇
             (承前)


   ★ 珍皇寺から洛中へ、さらに小野篁ゆかりの地へと足を伸ばします。 ☆

 華やかな王朝文化を誇る都の背後には、冥く静かな死者の世界が。
 此岸と彼岸を結ぶ鐘の音は今も響き続けます。



   *拙い写真しか無くて申し訳ないです。

 珍皇寺の周辺にも沢山の名所・旧跡があります。
 北へ行けば風神雷神図屏風でも知られる建仁寺がありますし、西へ行けば清水寺も間近です。

 右の写真は、珍皇寺から南に少し行った所にある補陀落山六波羅蜜寺の本堂(重要文化財)です。14世紀に再建された建物ですが、鎌倉時代の建物の雰囲気を残しています。
 六波羅蜜寺は、平安後期〜鎌倉期の優れた彫像(特に肖像彫刻)を所蔵しているので有名です。空也上人像や伝平清盛像は、誰でも一度は目にしているのではないでしょうか。地蔵菩薩や脇侍像も優れた作品です。
 応永三年(西暦963年)に空也上人が創建したと伝えられます。この地は平家の六波羅政権や鎌倉幕府の六波羅探題でも有名ですね。
六波羅蜜寺
 六波羅蜜寺は松原通の轆轤町にあるのですが、この轆轤(ろくろ)も六波羅(ろくはら)も、何れも古い呼称である髑髏原(どくろはら)に由来するといいます。かつてそこから大量の人骨が出土したというのです。このような地名にまつわる伝説は、この辺りが鳥辺野に連なる死者の通路であったことをうかがわせるものと言えましょう。


 さらに、『徒然草』に「あだし野の消ゆる時なく、鳥辺野山の烟立ちさらでのみ」と記された、古い葬送の地の痕跡を、観光客で賑わう清水坂でも辿ることができます。

 例えば、清水坂と三年坂(産寧坂)、五条からの坂の辻に経書堂という小さなお堂が建っています。ここは参詣人が経を書いて亡者に手向けたという所で、かつては向かい側に三途の川の老婆(=奪衣婆)を祀る姥堂(法成寺、本尊は愛染明王)がありました。つまりこの辻は顕界と幽界の境界、謂わば六道の境の一つと考えられていたのです。
 また、音羽子安塔の産泰寺の本尊も、かつては地蔵だったと言います。これら姥堂や子安塔に関する本地譚(『子安物語』)には、閻魔王や地蔵が登場し、冥界との関係や境界性が強く表れていると言えましょう。

 続いて小野篁の足跡を追って東山を離れ、京都の繁華街へと向かいます。
 寺町通三条を上がった所、そこに矢田寺(矢田地蔵)があります。
 西山浄土宗の寺院で、かつては大和郡山市の矢田山金剛山寺の別院だったそうです。小さなお寺ですが、ここも小野篁ゆかりの地です。

 『矢田地蔵縁起絵巻』によれば、本尊の地蔵菩薩(代受苦地蔵)は、開山の満慶上人が冥土で出会った生身の地蔵菩薩の姿を写したものです。その際、上人を冥土へと案内したのが小野篁であったのです。
金剛山矢田寺
 上人は三熱苦に悩む閻魔王に菩薩戒を授け、苦しみを救います。閻魔王はお礼に地獄を案内し、白米の尽きない桝を贈りました。以後、満慶上人は満米上人とも呼ばれるようになったと言います。


 寺伝によれば、矢田寺は平安時代に満慶上人と小野篁によって五条坊門に創建されました。その後寺地は転々とし、現地には天正七年(西暦1579年)に移ってきたそうです。
 所在地は中京区寺町通三条上ル天性寺前町(河原町三条からすぐです)。


 右は矢田寺の「送り鐘」です。
 珍皇寺の「迎え鐘」と対になっているものです。お盆の終わり(8月15,16日)に、迎えた精霊を送る時に撞きます。
矢田寺送り鐘
錦天満宮鳥居詳細
 矢田寺は寺町通りにある訳ですが、近くに錦天満宮という小さなお宮があります。
 ここから西に延びる錦小路は京の様々な食べ物を扱う店舗が数多くあることで知られています。
 この錦天満宮の鳥居がちょっと変わっているので、紹介しましょう。
 写真から分かるように、鳥居の両端が建物にめり込んでしまっているのです。なんでも、区画整理の時に、空中での鳥居の幅を考慮しなかったためとか。
 なんだか微笑ましくて良いですね。

 実は小野篁の地獄巡りゆかりの地はまだあります。
 それは冥土通いの出口とされる場所です。

 東山の六道の辻を冥土への入口とし、嵯峨大覚寺南の六道町に出口があったという説があるのです。それによれば、小野篁は地獄から嵯峨の福正寺(ふくしょうじ)の井戸を通って帰って来たと言います。そのため、東山の「死の六道」に対して、嵯峨は「生(しょう)の六道」と呼ばれたと言います。

 福正寺は明治初期に退転してしまいましたが、そこに残されていた篁ゆかりの地蔵は、現在その由来と共に清涼寺塔頭の薬師寺に伝えられています。
 薬師寺の地蔵(生六道地蔵菩薩)に関しても、矢田寺と同じような物語が伝えられています。つまり、この地蔵は、地獄の火焔の中で小野篁が出会った、衆生に代わって苦しみを受ける地蔵菩薩の姿を写したものだというのです。
 毎年8月24日の地蔵盆法要時には、本堂が一般公開されます。
清涼寺釈迦堂

 上は清涼寺の釈迦堂。この西隣に薬師寺があります。
薬師寺の所在地は右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町
(清涼寺よりすぐ)


かつて福正寺があった六道町は化野の入り口でもあります。

 京都には、矢田寺や薬師寺だけでなく、小野篁作と伝えられる地蔵が残されています。京に至る街道の出入り口に祀られるもので、元々小野篁が伏見六地蔵に安置した六体の地蔵を、後に各街道の出入り口に安置し直したものと伝えられます。
 これらの地蔵は、境界の守護者としての意味合いを持ち、境界論から語ることも可能ですが、それは又別の話題となります。

 代表として、山科四ノ宮の山科地蔵を紹介しましょう。徳林庵(山科区四ノ宮泉水町)に祀られているもので、小野篁が作った六地蔵の一つとされます(京阪四ノ宮駅からすぐ)。
 徳林庵のある四宮は、京から東海道への出口であり、また醍醐路への境にも当たります。そしてこの地蔵は所謂「シク」、「シュク」の地に祀られたもので、元は河原にあったといいます(シク→シクウ→四宮→シノミヤ)。それ故かこの地は古くより琵琶法師と関わり深く、琵琶法師当路座の祖神である人康(さねやす)親王を祀る場所でもありました。近隣には天台の十禅師と関連すると思しき十禅寺(人康親王像を祀る)もあり、境界の地としての性格を強くうかがわせます。

 残り五体は、当初の安置場所の伏見六地蔵(奈良街道)にある大善寺伏見地蔵、上善寺の鞍馬口地蔵(鞍馬街道)、源光寺の常磐地蔵(周山街道)、地蔵寺の桂地蔵(短波丹波街道)、浄禅寺の鳥羽地蔵(西国街道)です。
 これらの地蔵は、木幡山の桜の樹から小野篁が仁寿二年(西暦852年)に作った六地蔵を、保元二年(西暦1157年)平清盛の命により西光が京と六街道の境に六角堂を建て、ぞれぞれの地に分けて祀ったものとされています。契機となったのは都に流行した疫病とされ、後白河法皇が清盛に勅令を発したとされます。この縁起にも、境界の護持者としての地蔵の性格が色濃く表れているように思えます。

 何れの寺も8月22日、23日の六地蔵巡りの風習で知られます。

 最後に墓所と伝えられる場所を記しておきましょう。
 やはり古い葬送の地である紫野、堀川北大路を下った所にある島津製作所紫野工場の脇にある二つの塚の一つが、小野篁の墓であると言います(もう一つは紫式部と伝えられる、二人の関係も小野篁が地獄の冥官であった伝説に因む)。
 所在地は北区紫野西御所田町です。


   <了>
  なく涙雨とふらなむ渡り川
   水まさりなばかへりくるがに

    (『古今和歌集』巻十六 哀傷歌)

  子子子子子子子子子子子子
   (猫の子仔猫、獅子の子仔獅子)
    ※篁が解いたという嵯峨天皇の謎かけ


(★補遺)
 京都には小野小町ゆかりの地もあります。
(平安京の歌人ですので当然ですが……)
 有名な所を紹介しておきましょう。

 まずは小野一族の本拠地という京都府山科区小野御霊町にある随心院が挙げられます。
 随心院は真言宗の門跡寺院で、善通寺派の大本山ですが、一般には小野小町ゆかりの寺として知られています。随心院のある場所は、小野小町が宮中を退いて後に住んだ土地と伝えられているのです。ここでは、様々な小町にまつわる行事も行われています。
 境内には、小町の詠んだ「花の色は……」の歌碑化粧井戸、恋文を埋めた文塚などがあります。
 さらに、本堂には小町晩年の姿を写した卒塔婆小町像や恋文を下張りにしたという文張地蔵が祀られています。
 (地下鉄東西線小野駅から、勧修寺や醍醐寺拝観と組み合わせるのが良いかも知れません)

 次に挙げるのは、京の北方、鞍馬への途中(左京区静市市原町)にある補陀落寺です。
 ここは別名小町寺といい、小町の供養塔が残されています。晩年の小町がこの地で亡くなったと伝えられているそうです。
 境内には小町の供養塔に加えて深草少将の供養塔姿見の井戸があり、本堂には老いた小町の姿を写した小町老衰像が祀られています。
  (叡山電鉄鞍馬線市原駅より)

 もう一箇所は、東福寺の塔頭退耕庵です(下写真)。
 東福寺は紅葉の名所としても良く知られています。臨済宗東福寺派の大本山で、京都五山の第四の名刹です。
 退耕庵は東福寺の塔頭の一つで、14世紀に創建されました。応仁の乱で荒廃していましたが、慶長年間に安国寺恵瓊が再興したと言います。
 ここにも小野小町百歳の井戸、そして小町百歳の像や小町の恋文を収めたという小町玉章地蔵が小町堂(地蔵堂)内に残されています(地蔵は近代になって小町寺から移されたものという)。
 (JR又は京阪の東福寺駅より、私は特別公開に合わせて拝観しましたが、通常は見学には事前予約が必要なようです)


 他にも京都には、小野小町ゆかりの神社仏閣が沢山あるかと思いますが、きりがないので今回はこの辺りで。
 (写真が少なくて申し訳ないです。門前とかで撮った写真がどこかにあるはずなのですが……)



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