●蛇足の解説(天狗)の巻 II
第二 夜叉としての天狗 続いては、仏教が広まると同時に現れてくる、仏法の妨げを為す存在、邪神としての天狗について見てみよう。 大陸では星の一種であった天狗も、本邦の信仰やら仏教、特に修験道と関わることで独特の存在となって行く。ここでは先ず仏教との関わりについて述べよう。 天狗はまず、仏教に敵対する魔性の者として立ち現れてくる。つまり仏教に敵対する存在である夜叉飛天やら天魔波旬(はじゅん)を指して天狗と称したのである。天狗の姿のうち、空中を飛行する翼は飛行夜叉に因むともいう。本来はすこしづつ異なる存在である夜叉や天魔、天狗が同一視されたわけだ。 例えば夜叉は本邦の天狗に比される訳だが、本来は毘沙門天の眷属の鬼神で八部衆の一つともされている。仏法を守護する神でもあるわけだ。夜叉はサンスクリット語で勇健の意味を持つヤクシャ(Yaksa)の音訳で又の名を薬叉とも言う、容貌醜怪、猛悪なる鬼神とされる。空中を飛翔することができると考えられており、これを飛行(ひぎょう)夜叉と言った。また天魔とは仏教世界において、欲界六天の頂上、第六天にいる魔王とその眷属を指す言葉だ。織田信長が自ら第六天魔王と称し、僧達に恐れられたのは有名だろう。これらは常に正法を害し、仏道の障害をなす。そして人心を悩まし、智慧善根を妨げる悪魔である。この語は、サンスクリット語で悪者の意味を持つ波旬(papiyasの音訳、第六天の魔王のこと)と一緒に、「天魔波旬」として用いられる。これは仏教に敵対する悪魔の総称に近いものがある。結局、これらは天魔鬼神とか、天魔外道とか、一緒くたに用いられている。こうして天狗=夜叉=仏道を妨げるもの、という構図が定着してゆく。 ただし、この種の天狗が登場した頃、つまり平安時代頃までは天狗の姿は一定しない。天空を飛行するという性質は共通のようだが、僧侶や仏に化けたり、人に憑いたり、糞鳶(ノスリ)の姿をするなど、様々な伝承が残されている。大まかには鳥の姿の鳥類天狗と括ることはできようがな。次にはごく初期の天狗の用例を挙げてみよう。 「かくはるかな山に、誰れかものの音調べて遊びゐたらん、天ぐのするにこそあらめ」 (『宇津保物語』「俊蔭」天禄〜長徳年間(西暦970〜999年)頃) 「事の心をし量り思たまふるにてんくこだまなどやうの物のあさむき率てたてまつりけるにやとなんうけたまはりし」 (『源氏物語』「夢浮橋」長保三年(西暦1001)以降) これらの天狗は、具体的な形を持たない、謂わばもののけの一種として捉えるのが正しいかと思われる。 一方で、仏道を妨げるこの種の天狗は、『今昔物語』(保安元年(西暦1120年)以降、保元の乱(西暦1156年)以前に成立)に収められた説話や、それを元にした「是害坊絵巻」(鎌倉期以降)のように、しばしば鳶のような姿で描写される。これが僧侶の修行を邪魔する天狗の典型的な姿だと思われる。 『今昔物語』に収録された印度から渡ってくる天狗の説話には、「天竺の天狗、海の水の音を聞きて此の朝に渡れる語(こと)」(巻二十本朝部付仏法、第一)、「震旦(しんたん)の天狗智羅永壽(ちらえいじゅ)此の朝に渡れる語」(同、第二)がある。特に智羅永壽の話は人気があったらしく、是害坊、是界坊という名で絵巻に描かれたり、謡曲の題材になったりしている。次には謡曲の『是界』に描かれたその台詞を見てみよう。 「いかに御坊、今しも何の観念をかなせる。それ若作障礙(にゃくさしょおげ)即有一仏(ういちぶつ)、魔境と 説けり。あら痛はしや。欲界の内に生るる輩(ともがら)は、悟りの道やそのままに、魔道の巷となりぬらん」 大陸から渡ってきた天狗が、比叡山の高僧に挑戦しようとして、その法力のためにこてんぱんにされてしまうという話だな。滑稽な笑い話ではあるのだが、その後ろには、天台の高僧達の法力の宣伝という目的が隠れていると言えよう。 また、『今昔物語』には、僧を騙す天狗の偽来迎と呼ばれる説話もある。これは「伊吹の山の三修禅師、天宮の迎へを得たる語」(巻二十本朝部付仏法、第十二)である。この話では、余り学問をしないが極楽往生の希望だけは強い法師が、天狗の作りだした偽の来迎に欺されてしまうのだ。この話はこう結ばれている。 「如此(かくのごとき)の魔縁と三宝の境界とは更に不似(に)ざりける事を、智(さと)り無きが故に不知(しら) ずして被謀(たばからる)る也となむ語り伝へたるとや」 また、僧侶に対する攻撃の際に、天狗が女人に憑くという話も伝えられている。やはり『今昔物語』にある「仏眼寺の仁照阿闍梨の房に天狗の託きたる女来たれる語」(巻二十本朝部付仏法、第六)という説話である。ここでは僧侶を堕落させる為に、天狗は女に取り憑いて僧に言い寄っている。結局は不動明王の加護のために天狗は術を破られてしまう。「惣て翼打ち被折(おられ)て、難堪(たえがた)く術無く候ふ。助け給へ」などと天狗は泣き言を言っている。ここでも天狗の本体は、翼を持った姿としてイメージされている。 『今昔物語』にはまた、僧侶だけを対象としている訳ではないが、天狗が仏法をねじ曲げて人を欺そうとする話も収録されている。「天狗、仏と現じて木末(こずえ)に坐(いま)せる語」(巻二十本朝部付仏法、第三)である。これは天狗が仏に化けて木の上に現れ、人々の礼拝対象となるが、やがて正体を見破られてしまうという話で、その本体はやはり「大きな糞鵄」であったという。この他、『今昔物語』には、天狗に習った云う幻術を見せる下衆法師の話など天狗に関わる説話などが収録されている。 ところで、『今昔物語』には天狗と龍の対立を描いた「龍王、天狗の為に取られらる語」(巻二十本朝部付仏法、第十一)という説話も収録されている。これは讃岐の満濃池に棲む龍王が、小蛇の姿で池の土手で昼寝をしていたところ、比良の天狗に攫われ、岩屋の中に閉じ込められてしまう。龍王は水が無いので神通力を発揮できないで困っていると、今度は天狗が比叡山の僧を水の入った柄杓ごと攫ってくる。その水で力を取り戻した龍王は僧と共に岩屋を破って飛び去る。後に天狗が京で法師に化けているのを見付けた龍王はこれを蹴殺してしまう。と言う話である。殺された天狗は翼の折れた糞鵄(=ノスリ)に変じてしまったという。 「天宮(てんぐ)、京に知識を催す荒法師の形と成りて行(あるき)けるを、龍降りて蹴殺してけり。然れば、 翼折れたる糞鵄(くそとび)にてなむ、大路に被踏(ふまれ)ける」 この説話からは、当時天狗の姿として鳶のような鳥がイメージされていたことや、既に人攫いが天狗の仕業とされていたことが分かる。 ここで思い出されるのは、ヒンドゥー教における霊鳥ガルーダ(Garuda)と竜神ナーガ(Naga)との関係だろう。ガルーダとナーガとは不倶戴天の敵同士なのだ。……世界的にも神話上鳥類と蛇とはしばしば対立するようだがね。そしてこのガルーダが仏教に取り入れられた姿が迦楼羅なのだが、鳥類天狗の図像はこの迦楼羅像の影響を受けて成立したという考え方もあるのだ。そうするとこの説話の対立構図も、もしかしたら遠く印度にその源流を持つものかもしれないな。なお、鼻高天狗の方の原型としては、舞楽面の一つ胡徳面や伎楽面の一つ治道面が考えられている。そう言えば、舞楽面の崑崙八仙(ころばせ)の面も、冠鶴を表したものとされているものの、その造形は迦楼羅や烏天狗に近いものがある。 『今昔物語』などに代表されるこうした説話は、天台系の密教僧達によって、積極的に流布された形跡がある。彼らの験力を宣伝する格好の材料というわけだ。天狗は人を病気にしたり、僧と法力を争ったりしているが、結局は天台の僧侶がこれら天狗と戦いこれを打ち負かすことで、己の験力を誇示しているわけなのだ。彼等はこの世の異常の説明手段として「天狗」を用いているのだ。これは嘗て朝廷で陰陽師達が鬼や妖狐を以て異常の説明とし、これを退治することでその勢力を伸ばしたのと全く同じ事だ。 仏法の妨げをなす天狗について、日本仏教の拠点の一つ天台宗の比叡山に伝わる物語も述べておこう。比叡山には天狗怖しと呼ばれる修法があったという。これは修行の妨げをなす天魔・天狗の類を調伏するための修法とされる。その様子は『渓嵐拾葉集』巻六十七「怖魔の事」に詳しい。そこには「山門常行堂衆夏末ニ常行堂ニ於テ大念仏ト申ス事アリ。仏前ニテハ如法ニ引声ス。後門ニハハ子ヲトリ無前無後ニ経ヲ読ム也。是山門古老伝ニ天狗怖ト申シアヘリ」とある。また、熊野の那智でも同様の作法が存在したという。正面の仏前では通常のしきたりに則った行を行うが、摩多羅神の祭られる堂の後戸では、順序立てずに経典を読み、跳ね踊るというのだ。そして、敢えて退けるべき天狗に屈したかのように常軌を逸した作法を取ることで、逆に天狗を脅すのだという。因みに『渓嵐拾葉集』とは、天台宗にまつわる仏教教義、修法、説話、巷説、医術、歌道など様々な資料を応長元年(西暦1311年)から貞和四年(西暦1348年)にかけて光宗という僧が集成したもので、中世に関する一種の百科全書の体をなしているもののことだ。 また、『渓嵐拾葉集』の「怖魔秘術の事」という項目には修行を妨げる魔を退散させる為の秘術が伝えられているが、そこからは、鳶が天狗の化身と考えられていたことも解る。一方で、天狗=夜叉神は摩多羅神とも習合し、さらに様々な問題を提起して行く訳だが、これ以上の言及は本稿の範囲を超えてしまう。摩多羅神と荼吉尼天との関係、常行堂や後戸の神、あるいは芸能神としての摩多羅神の話は又別の時に語ることもあろう。 ちなみに、宗教儀礼に関わる天狗については次のような事例もある。奥三河の花祭で行われる「天(あま)の祭」という修法があるが、そこでは祭りに先立って太夫により天狗祭文が読まれ、天狗が勧請される。また静岡県水窪・西浦には司祭者による「天狗祭」という修法を祭に先だって行う例もある。これらは祭りを掌る太夫、別当が、威力の強い強大な神霊、即ち天狗を勧請し、それを鎮めると共にその通力を自らのものとすることを目的に行われたものだという。こんな事からも、人々が天狗に対して持っていた巨大な霊力のイメージをうかがうことができよう。 なお、真言宗では夜叉神を荼吉尼天・聖天・弁財天の三天と同一の尊格と考えていたらしい。ここからも夜叉神を通じて天狗と荼吉尼天や聖天が習合していく背景が形作られるのだ。これら仏教における鬼神(天部)については次にやや詳しく述べてみたいと思う。 天狗と同一視された仏教における鬼神は、前に述べたように夜叉とされたことから天狗と習合したのだと考えられる。それら鬼神には頻那夜迦とか荼吉尼天などがある。僧の諦忍が著した『天狗名義考』にはこうした天狗説が載せられている。諦忍が書中で引用しているのは『寂照堂谷響集』で、「比那天狗従我教見之。魔波旬属。頻那夜迦荼吉尼等亦其類也」(※原文では「荼(だ)」ではなく「託」の言偏を口偏に変えた漢字を用いる)と記されている。要は、天狗とは天魔波旬の仲間で、頻那夜迦や荼吉尼天の類であるということだ。 この中の頻那夜迦(びなやきゃ)とは、ヒンドゥ教のガネーシャ(Ganesa)のことである。頻那夜迦/毘那夜迦はヴィナーヤカ(Vinayaka)の音訳だが、別名をナンディケーシュヴァラ(Nandikesivara)とも云う。漢訳して俄那鉢底(がなばつてい)あるいは難提自在天(なんでいじざいてん)と云う。元々の意味は障礙神の王というものだ。また『大聖歓喜双身毘那夜迦天形像品儀軌』に、このものを六通自在故に聖天と名付ける、とあることから、聖天、歓喜天としても良く知られているぞ。なお、三宝荒神の本体もこの神とされている。例えば「此ノ障礙神ト云フハ、世ニ大聖歓喜天トモ聖天トモ云フ物ノ事ニテ、天竺ニテモ毘那夜加ト云フ」(『玉手繦』)などと伝えられている。荒神も多様な性格を持っていて、今回の話題の範囲を超えてしまうので、此処では関係があると言うことだけ述べるに止めておこう。ただ、民間でも神通力を持ち色々な福を授けてくれるというので歓喜天の信仰は結構盛んだな。まあ、秘仏の場合も多いが、理由は私には苦手な話題なので聞いて呉れるな。また、ガネーシャ自体は有名な神様だからここで詳細に述べるのは止めておこう。我が国では象頭双身像が専らだな。聖天、歓喜天としては単独の神として信仰されているのだが、頻那夜迦と云う場合は障礙神としての性格が強いようだ。夜叉と見なされ、天狗と同一視されるのも、この鬼神のこうした障礙神としての部分だと思われる。また、この神は確かに鼻が長いのだが、象頭としての性格上鼻が長いので、よく考えると鼻高天狗とはだいぶイメージが違うな。 続いて、やはり夜叉と見なされ、天狗とも同一視された荼吉尼天(漢字の表記には異同がある)についても述べておこう。荼吉尼天は元々、ダーキニー(Dakini)と呼ばれた印度の地母神が仏教に取り込まれたものだ。ダーキニーは、豊饒を掌る美しい女神であり、バラマウ地方のドラヴィダ人の一部族カールバース人に信仰されていたという。ただしヒンドゥ教の大系に組み込まれると、カーリー女神に仕える恐ろしい存在となった。更に仏教に取り入れられると人を喰らう鬼神とされ、人の死を六ヶ月前に知ってその内蔵を喰うという。また『十王経』に説く三鬼の一つ、死に臨んだ者の精気を奪う「奪精鬼」とも同一視された。因みに、荼吉尼天を調伏するのはシヴァ神の別称ともされる大黒天(摩訶迦羅天Mahakala)なのだが、荼吉尼天はこの大黒天とさえ習合していたりするのだ。つまり、「此の大黒は、人の血肉を喰らふ神也。すなわち奪精鬼と名づく也。故に此の神は屍堕林に住み給う也」と伝えられている訳だ。調伏する者とされる者とがいつの間にか同体になってしまっているのだが……。まあ、こういうことは結構良くあることだ。何はともあれ荼吉尼天は、こうした予知能力の連想からか、通力自在の強力な神として、特に密教や修験道で信仰された。中世に権力者が行ったという荼吉尼天法は著名だな。邪教立川流とか、聞いたことが有ろう。 なお、この荼吉尼天は乗り物あるいはその化身である狐(本来は野干=ジャッカルなのだが)を通して稲荷神と習合したり、飯縄権現の本体とされたりしている。飯縄権現は信濃あたりで山岳信仰と結びつき、修験道の信仰対象ともなっている。この辺りについては、後の山岳信仰の部分で再び触れることになろう。これらの鬼神は、本来的には我が国の民俗的存在たる天狗とは異なるものだが、後の天狗像に大きな影響を与えているのは否定できないだろう。なお図像学的に見てみると、荼吉尼天は通常狐に乗る美しい女神として表される。これは弁財天などとも習合しているということだ。一部、天川社などに伝わる頭部が蛇の異様な図像もあるがな。これはおそらく宇賀神や稲荷神との習合の結果だろうな。一方、飯縄権現の図像は、簡単に言うと狐に乗る烏天狗の姿だ。翼と嘴を持っている。 ここで、仏教とはやや離れるが、邪神として描かれる天狗についても見てみよう。 日本の百科辞典的書物である寺島良安『和漢三才図絵』(正徳二年(西暦1712年))では、『先代旧事本紀』を引いて素戔嗚尊の体内の猛気が吐き出されて天狗神(あまのざこがみ)と成ったという俗説を記している。この神は高い鼻と牙、長い耳を持つ姫神で、天逆毎姫(あまのさこのひめ)と称したという。力が強く、またどんなに強靱な矛や刀でも噛んで毀してしまうという。その子である天魔雄神(あまのまかおのかみ/あまのさかおのかみ)あるいは天魔雄命(あまのざこのみこと)と共に暴れ回ったため、天魔雄神を九天の王として荒ぶる神、逆らう神を皆これに属させたという。ただし、この説は信憑性に乏しいな、引用元の文献である『旧事本紀』自体が平安時代の偽書らしいからな。寺島良安も「正説ではないが」と断っている。ただし、素戔嗚尊は太陽と月とを兄姉とする嵐(風)の神であり、元々の天狗がやはり天空の光を表すことなどを考え合わせると、単なる妄説として退けてしまうのには躊躇するものがあるな。そうそう、これは昔話に語られる天邪鬼の原型ともいえる。諦忍が著した『天狗名義考』にも同じく『旧事本紀』を引いて同様の説を掲載している。なお、鳥山石燕も『今昔画図続百鬼 明』に、「天逆毎」として同様の由来を詞書きにし、刀を噛み砕く鬼神を描いている。 一方、近世の神道家は、衢(ちまた)の神である猿田彦神を天狗に比定している。猿田彦は目輝き鼻高い異相の国津神であり、天孫降臨の際には先頭に立って案内を努めた。ただし、鼻が高いなどの形態としての共通点は確かにあるものの、文献上、猿田彦を天狗とする様な記述は見られない。私はこれは別種の神格と見るべきだと思う。 このことに関して、少し補足しておこう。古代の伎楽において、行列の露払いを務めたのが高い鼻の面を被った治道という役であった。これに対し、後世の祭礼の先導役は天狗や猿田彦、王舞などとされるが、何れも鼻が高い容貌魁偉な面を用いるのだ。こうした祭礼の先導役としての機能の類似から、それぞれの同一視が生じたのだろう。ただし、ここから単純に猿田彦は天狗であるとか、治道面が鼻高天狗の原型だなどとは言えないのではないかと思う。勿論治道面の形態が、何らかの影響を与えた可能性は高い。だが、こうした民間信仰のような分野で、あるものが原型でそれが一方向に変化したという、一対一の単純且つ一方向のみの影響を論じるのは危険なのではないかと思う。 さらに後の室町時代末期、西洋から基督教が持ち込まれた。そのとき基督教の悪魔の訳語として充てられたのが天狗であった。民間伝承とは異なるものであるが、参考として述べておこう。慶長四年(西暦1599年)の『ぎやどぺかどる』にその例を見ることが出来る。 「天狗の謀略、あにまを出入りし様々に変ずる事を弁へ、万の望みを本とせず、表むき善なりと見ゆる事に、 早く同心せざる事も此善也」(下、二・四) |
◎おまけの絵は「天狗烈風弾」。
「物言えば唇寒し秋の風」