境の殺戮

  0.はじめに
  1.境目に潜む妖怪
  2.出雲の八重垣
  3.色鮮やかな縁
  4.高貴なる色彩
  5.怪異を招く色
  6.神隠しの主犯
     6-1.黄昏の迷い子
     6-2.幻の楽園
     6-3.九ツ谺の向こうに
  7.覗き見るモノ
  8.異界への入口
  9.彼岸への架け橋
 10.境界の護持者
  終.境の殺戮

  付.参考文献





0.はじめに


 八雲紫論序説など、大層なタイトルを付けましたが、そんなたいしたものではありません。それから、ここで述べてゆくことは、一般に考察と呼ばれているものとはおそらく違うものとなるかと思います。
 もちろん八雲紫なるキャラクターは、上海アリスの神主様が創造した魅力的なものです。が、ここではその造型の背後にあったのではないかとと考えたことを書いてゆこうと思っています。八雲紫の原型と言うか、その背後周辺に広がる世界について少々紹介できればと考えています。要は八雲紫について直接考えることを放棄して、こんなことをもとに創造されたのではないかという点について扱うわけです。その辺りの所、誤解無きようお願いします。
 つまり、ここでは八雲紫というキャラクターそのものを扱うわけではありません。その背景や周辺にある様々な事柄について、思いつくことをあれこれ書き連ねてゆくものと思ってください。ですからこれは、キャラクターの考察ではありません、多分。


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1.境目に潜む妖怪


 幻想郷に住む隙間妖怪、神隠しの主犯たる八雲紫について、少し考えてゆきたいと思います。ただし、ここで言及するのは、妖怪八雲紫の背景や彼女の負っていると思われる文化的な要素についてのみです。キャラクターとしての性格や行動、物語の進行に関わる問題については触れないつもりです。
 彼女自身の過去やら他の登場人妖との関係についての何らかの記述を期待された方には申し訳ありません。


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 それではまず、八雲紫についてどのような特性が与えられているのかについて整理してみましょう。

境目に潜む妖怪
 第一には名前です。妖怪については名前は重要です。名前のない怪異は妖怪ではありません。ある固有の名前を得ることで妖怪は妖怪たることができるのです。ですからやはり名前は重要なのです。彼女の持つ名は八雲(ヤクモ)紫(ユカリ)。妖怪八雲紫を理解するためには少なくとも「八雲」と「」の二点を考えてゆくことが必要でしょう。
 次には彼女の持つ属性があります。設定の二つ名などに示されているものです。胡散臭かったり、困ったちゃんだったり、寝てばかりというのは今回は除外します。個人?の性格による部分だと思われますので。そこで注目すべきは「神隠しの主犯」と「スキマ妖怪」ということです。古い民間伝承に由来する「神隠し」と現代伝説(都市伝説)的怪異である「隙間妖怪」を属性として持っていると考えられるわけです。
 第三には彼女の能力です。即ち境界を操る程度の能力です。境界論というのはきわめて重要な分野であり、民俗学的な妖怪論や異人論など多様な関わりを持ち得るということで、境界を扱う人間たる博霊の巫女とともに東方の物語世界を構成する重要な要素といえましょう。
 なお、彼女の能力として式神を用いるというものもあります。これも陰陽道や安倍晴明、狐信仰、異類婚姻譚と関わる興味深い要素ですが、今回は扱わないこととします。機会がありましたら別のところで述べたいと思います。

 以降は、上記の各内容について、思いついたことなどを書き連ねて行きたいと思います。


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2.出雲の八重垣


 さて、はじめは名前「八雲」について考えてみましょう。これについては特に民俗学的なものではなく、語義について触れる程度になるかと思います。

出雲の八重垣

 「八雲」という語自体は幾重にも重なる雲を表します。一般的にはこの語は、「八雲立つ」あるいは「八雲差す」として地名の出雲にかかる枕詞です。また「八雲立つ国」と言えば出雲国のことを差します。言葉そのものの意味を考えると、「八雲立つ」は多くの雲が立ち上るという意味で、「八雲差す」も多くの雲が勢いよく立ち上る意味でほぼ同じ内容を持ちます。
 これは出雲の地名起源伝説を元とする、いわば土地賛美の褒め言葉だったとされます。そしてこの言葉は、記紀に記される素戔嗚尊(すさのをのみこと)の神話が原典とされています。

  「茲の大神、初め須賀の宮を作らしし時に、其地より雲立ち騰(のぼ)りき、かれ御歌作(よ)みしたまひき、其の歌は、八雲立つ(夜久毛多都) 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(『古事記』上、歌謡)

 さらに、この『古事記』の歌が、三十一文字からなる和歌の初めとされたことから、「八雲」、あるいは「八雲の道」は和歌あるいは歌道を示す言葉ともなりました。これにちなんだ歌道書に順徳天皇の著した『八雲抄』(『八雲御抄』とも)があります。
 この他にも、この歌が櫛名田姫(奇稲田姫)と結婚して新たな宮を建てるときの歌だったことから、結婚話のことを「八雲沙汰」と言ったりします。


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 さて、「八雲」とは、いずれ出雲に関わる言葉であるのですが、ここで思い起こされるのは出雲神話です。学術上正確には、記紀で語られる出雲を舞台とする神話と、出雲風土記に残された現地に伝えられたと思われる神話とに分類すべきあるとされています。そしてその成立や構成も複雑で、現在でも様々な解釈や問題が残されているようです。
 この件に関しては、しばしば用いられる「出雲族」なる言葉についても、歴史学上・考古学上の所見からはその実体について疑問が多いとされているようです。

 ここでは上記のような詳細には踏み込まず、一般に膾炙しているイメージに沿って見てゆきたいと思います。すなわち、出雲地方には政治的・宗教的に中央の大和政権とは異質の勢力がかなり後まで存在し、他の地域より遅れて統一支配下に入ったというものです。そして、こうした歴史的事実が神話として残されているという訳です。
 出雲に関する神話の内容は、簡単に言うと、元々大和の地を支配していた大国主神に対して高天原の神々が国譲りを強要したというもので、その時に反抗した武御名方神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)と争って敗れ、信濃の諏訪まで逃れて鎮まったとされます。
 なお、風土記に記された神話は島曳きなど開闢説話を含むもので、国譲りの神話とは異なります。出雲の神々にはこうした敗北した国津神のイメージが濃厚に残っているように思われます。この他にも、倭建命が出雲建を騙し討ちにする話が古事記にはあります。これらは神武東征に抗した長髄彦や国栖、土蜘蛛などの中央政権に従うことを良しとしなかった在地勢力の姿と重なります。彼らのような中央の王権に敗れたまつろわぬ民は排除され、時には妖怪視されたのです。
 これらの「妖怪」は、先の土蜘蛛などばかりでなく、温羅や両面宿禰、八束脛、悪路王など枚挙にいとまがありません。


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 従って、出雲の地、あるいは「八雲」という言葉からは、こうした大和政権とは一線を画した別勢力、天津神に対する国津神的なものを感じるのです。そういった点で、「八雲」の一族は中央の「歴史」を統べる王権とそれに連なる大陸的な白澤などの対極にある存在ともいえましょう。また所謂天孫系の神道体系となじまない神/妖怪としての存在ともいえましょう。

 「八雲」にはそうした反体制的な性格を暗示するような意味があるのではないでしょうか。

 最後に、出雲の神有月や大黒信仰などにつながる、出雲信仰について触れておきましょう。 
 出雲大社を中心とする出雲信仰は、大国主あるいは大穴持/大己貴(オオナモチ)神と呼ばれる神格を信仰するものです。これは農業社会へと浸透した信仰で、この神は広義のムスビの神として生産力を司っていたと考えられています。そしてこの生産力は仏教の大黒天と習合することによって、福神の一つとしても信仰を集めるようになりました(よく知られているように、我が国の最も有力な福神はエビスとダイコクです)。さらに、この出雲の神は縁結びや禁厭(まじない=呪術的医療)とも結びつけられました。特に禁厭の法の開祖としての性格は、出雲の神が因幡の白兎の伝説に傷を癒す方法を教える存在として登場することなどから、これをうかがうことができるといえましょう。

 ところで、「八雲」と妖怪・怪談との関わりを考えると、「むじな」や「耳無し芳一」で知られる文学者・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が有名でしょう。
 この名前は、松江出身のハーンの妻、小泉節の祖父が日本の古典から選んだものと『小泉八雲事典』(平川祐弘監修、恒文社、2000)にありました。一般には彼が一時期暮らしていた松江の属する旧国名(出雲)の枕詞と言うことで選んだとされています。また、彼は出雲大社への親近感も持っていたようです。
 素戔嗚尊の婚姻神話に見られるように、出雲と大和という異質の文化をつなぐ「八雲」の語には、西欧世界(彼はギリシア生まれのアイルランド人)と日本文化とを結んだハーンのイメージに重なるものがあるように思われます。


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3.色鮮やかな縁


 続いて名前「」について考えてみたいと思います。設定上名前の読みは「ユカリ」であるので、漢字の「紫」と「ユカリ」という音の二重構造として見てみようと考えています。

 ではまず「ユカリ」という語から考えてみましょう。
 “ゆかり”は、通常は漢字では「縁」と表記される語で、何らかの関わりや繋がりがあることを示します。よすがやちなみの意味もあります。また、血の繋がりあう者や配偶者を示すこともあります。はっきりと目で見える即物的な関係ではなく、因縁や血縁など、精神的・観念的な関係性としての意味が強いように思われます。
色鮮やかの縁
 ユカリの語源についてもいくつかの説があるようです。故係(ユヱカカリ)が元であるとか、所従を表すユに許(バカリ)のカリが付いたという説、床穀の意である(リは付字)とか、行有(ユクアリ)を約したものであるなどの説があるようです。

 さて、それでは何故「紫」を「ユカリ」と読むのでしょうか。
 これは、紫色のことを「ゆかりの色」と呼んだことによります。これは、

 「のひともとゆゑにむさし野の草はみながらあはれとぞみる」(『古今和歌集』雑上・八六七)

などにちなむとのことです。
 この古今集の歌は元々「古今和歌六帖(五)」から採られた歌です。意味は大体“ただ一本の紫草があればこそ、広い武蔵野に生えている総ての草が懐かしく見える”という感じです。
 後世には、熱愛する一人の人があるために、その人につながりを持つ総ての人に親しみを感じる、と解釈され、紫を「ゆかりの色」と呼ぶ原因となったわけですが、本来は草そのものへの愛着を歌ったものであろうと言われています。『広辞苑』にも「紫の縁(むらさきのゆかり)」の言葉が採られ、「ある縁故から情愛を他に及ぼすこと」と解説しています。
 なお、今回の現代語訳は小学館の「日本古典文学全集」及び岩波書店の「日本古典文学大系」の『古今和歌集』を参考にしました。

 この項目の最後に、食べ物の「紫(ゆかり」についても述べておきましょう。
 これは「ゆかり紫蘇(縁紫蘇)」の略称です。意味は紫色の紫蘇という訳ですが、梅干しを漬ける際に一緒に漬け込んだ紫蘇の葉を乾かして粉にしたものです。ふりかけとして良く使われます。色が美しいのでお菓子に入っていることもあります。
 さらに、これを湯に溶かしたものは飲酒の後の胸の不快に効果があるといいます。歌舞伎の台詞なんかにもあるようなので、近世文学を読むときに注意していると出てくるかもしれません。


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4.高貴なる色彩


 前章までに続いて、今回は「紫」の文字、即ち「ムラサキ」持つ意味について考えて行きたいと思います。

 「ムラサキ」は植物(ムラサキ科の多年草、紫草)を指す事もあります。が、ここでは主にその植物の根で染めた色、すなわち紫色について考えてみたいと思います。
 因みに、「ムラサキ」の語源については、叢咲(ムラサキ)、群咲(ムレサキ)からという説をはじめ、群薄赤(ムレウスアカキ)の約であるとか、数多くの説があるようです。
高貴なる色彩

 紫色とは赤と青の中間色を差します。日本の古代から中世期の紫と近世以降の紫ではだいぶ違うらしく、古い赤黒くくすんだ色彩の紫を「古代紫」、後世の明るい色彩のものを「江戸紫」として区別することもあります。ただし、この「古代紫」をくすんだ色彩とする学説には何の根拠もないという説もあります。なお、ここでは光学的な解説は省略することにします。

 紫色の染料としては紫草の根や貝紫があります。これらの染料は高価な染料として知られます。このためか、紫色はしばしば最高位を示す色として使用されました。紫衣や紫の冠(古代に大臣あるいは冠位十二階の最上位に与えられた冠)として知られています。また、養老二年(西暦718年)に制定された律令制度の下では、位階に応じて位色(制服の色)が定められました。そこでの最上クラス、すなわち一位から三位までの位色が紫色でした(一位は深紫、二・三位は浅紫)。なお、大化三年(西暦647年)の冠位制に既に高位の位色として紫色が定められていたと記す文献もあります。これら位色の順序は律令国家のモデルである中国とは異なっており、我が国独自の色彩感覚によるものと思われます。さらに紫は色の中の色として特別視され、単に「うすいろ」、「こきいろ」と言った場合は、濃い紫色、淡い紫色を指しました。

 紫根(紫草の根)による染色は江戸時代にも行われていましたが、非常に高価であった為、庶民の使用は禁じられていました。そのため、紫色に憧れた江戸時代の庶民達は、染料に安価な茜や蘇芳を用いた「似せ紫」を創り出しました。この色が広く使用されるようになると、本来の紫根を用いた色は「本紫」と呼ばれるようになりました。
 ところで、江戸期の紫色としては「江戸紫」と「京紫」が知られていますが、実際にこの二つの色彩にどのような差異があったのかは、よく分かっていません。由来や色味など、学説も一致していないようです。例えば、赤みがかかった紫が「江戸紫」で、青みがかった紫が「京紫」という説があれば、全く反対の説もあります。色味についての混乱は、江戸期の文献に既に見られます。そもそも「江戸紫」が指した色自体が時間と共に変化してしまった可能性もあります。この混乱に関するもっともらしい説としては、初期には赤みがかった色であった「江戸紫」が、後に青系統の色合いの流行に従って青みがかった色彩へと変化したというものがあります。


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 また、「紫の袖」といえば高位の官人の袍を指し、転じて立派な服装の意味となりました。衣服ばかりでなく、神社の祭礼において、御輿の渡御に対して最大の敬意を表するときには、金屏風の前に紫染めの幔幕を垂らしたそうです。あるいは、天子の書には紫色の封泥を用い、詔書のことを紫誥と称しました。この他にも、大相撲では、土俵上の水引幕も紫色ですし、優勝旗も紫色です。歌舞伎に登場する色男の代表、助六のトレードマークである鉢巻きも紫色で、紫は日本人が好んだ色といえそうです。
 さらに、日本でも中国でも僧侶の着る法衣の色については、紫色が高位とされることが多いようです。皇帝や天皇が送る衣も、紫衣と呼ばれる紫色の法衣です。例えば称徳天皇の寵愛を受けた道鏡や、曹洞宗の開祖道元が紫衣を贈られています。現在日本の仏教教団でも、高野山金剛峰寺の最高位・座主の法衣は紫色であり、曹洞宗の最高位・禅師も紫の法衣です。ただし、末寺やら宗派によっては異なる色の体系を持っているようです。

 さて、先に大相撲に使われる色についても記しましたが、行司の格を示す色も紫色が最高位です。立行司横綱格の色は紫で、立行司大関格は紫と白のまだらです。これらの色は、行司の持つ軍配の房や服の菊綴・紐の色として使われています。ちなみに紅白(赤と白のまだら)は幕内格でだいぶ格が落ちます(黒は最下位)。
 ただし、これらの位は伝統的な色彩感に基づいて明治43年(西暦1910年)、行司の直垂装束への変更と同時に定められたものではあるのですが。


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 このように、我が国では主に高貴な色と考えられていた一方で、紫色には負のイメージもあるのです。例えば孔子の『論語』「陽貨」には、「紫の朱を奪う」(「子曰く、紫の朱を奪うを悪む也と」)という言葉があります。これは間色の紫が正色の朱に混じると色を濁してしまうという意味で、贋物が本物を乱すこと、似て非なるものの喩えとして用いられます。また、よこしまで口先の巧みな者が用いられ、正しい者が遠ざけられることの喩えでもあります。まあ、逆に言うと正色の朱色よりも紫色の方が人気があったということを示しているのかもしれませんが。我が国は文化的に多くのものを大陸から受け入れ、共通の感覚も多いと思われますが、それでも随分と異質な部分があるようです。


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