境の殺戮(承前完結)

  0.はじめに
  1.境目に潜む妖怪
  2.出雲の八重垣
  3.色鮮やかな縁
  4.高貴なる色彩
  5.怪異を招く色
  6.神隠しの主犯
     6-1.黄昏の迷い子
     6-2.幻の楽園
     6-3.九ツ谺の向こうに
  7.覗き見るモノ
  8.異界への入口
  9.彼岸への架け橋
 10.境界の護持者
  終.境の殺戮

  付.参考文献





10.境界の護持者


 前回までに述べて来たように、我が国では人々の生活に境界というものは深く関わっていたと考えられています。そこは怪異の生まれる場所でもあり、また信仰の場でもありました。
 ここでは、境を司るモノとはいったい何なのか、その役割はどのようなものなのかについて考えてみたいと思います。


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 村などの共同体には、しばしば境界を超えて異界から進入してくるモノがあると考えられてきました。それは祖霊や福神のように、富や活力を与える善きモノであるかもしれませんが、一方で、疫病などの災いをもたらす悪神・妖怪の類かもしれません。

境界の護持者
 民俗社会の人々は、これを防ぐ工夫を考え出しました。道切りや境界領域に神霊を祭るなどの行為がこれに当たります。個人の家の戸口に護符を張ったり、注連縄を張るのも同じ考え方に因ります。
このように、本来は何重にもなった境界(結界)による防御の内側に、私達の生活は成り立っていたのです。
 基本的な結界の最も外側は、通常“村境”に当たります。具体的には村の入口に位置付けられる峠や坂、辻、橋などが境界と考えられました。そのような場所に神仏を祀り、あるいは注連縄を張ったり怖ろしげな人形を置いたりすることで、共同体の「外側」から侵入しようとするモノを防ぎ止めることを願ったのです。


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 それではこうした境界に祀られる神霊にはどのような種類があったのでしょうか。
 私は大まかに二つに分類できるのではないかと考えています。一つ目は、元々持っている性質によるものです。つまり、路傍や山、土地、樹木など、境界に深く関わるモノと関係を持つ神仏を祀るわけです。二つ目は、強大な力を備えると思われる荒ぶる神霊を利用するというものです。これは、異界より訪れる怖ろしい存在を防ぐ為には、それに匹敵する猛々しい存在、強力なモノが必要だと考えられたためと思われます。


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 それでは、境界に関わる神仏にはどのようなものがあるのでしょうか。

 仏教系統としては、まずは地蔵菩薩が挙げられるでしょう。地蔵ksitigarbhaは、もともと大地の持つ豊饒の力への信仰と結びついた性質を持っていました。また、六道を越えての救済や地獄巡りの説話があることからもうかがえるように、生と死の境界とも関わる菩薩とも言えます。そのために、土地の境界や墓地(生死の境界)などに地蔵が祀られることになったのです。さらに、境の神である道祖神(後述)の本地が地蔵菩薩とされるなど、道祖神と習合することで、境に祀られる仏としての性格を強めて行きます。幼き死者の守護者であることや、賽の河原の伝承を持つことに、それがよく現れていると思います。柳田國男は『石神問答』で「サヘの河原の地蔵尊は即ち又塞の神なり 路の衢に石の地蔵を立つるも 墓地の入口に六地蔵を祀るも 亦一種石神の信仰に基くものなるべし」と記しています。なお、勝軍地蔵といわれる地蔵が各地に祀られていますが、この「勝軍」は「遮軍神」・「社軍陣」などと表記される神格と同様に、境界の神の呼称「シャグジ」から由来するとも言います。

 子供の守護者という点は境界的な神仏によく見られる性質です。例えば、辻にはしばしば子安観音、子安地蔵などが祀られています(単に子安神と呼ばれる神格の場合もあります)。道の辻に赤子を抱く母神が祀られるという民俗信仰は我が国に広く見られ、辻堂という地名や石仏、観音、地蔵などもこの系譜をも引いていると考えられています。なお、妖怪の産女(うぶめ)がこうして辻や橋に現れるのも、元々はこのような信仰と関わっていたからと思われます。これは、本来死んだ子供を、大人と異なり、村外れや坂、峠など境界領域に埋葬あるいは遺棄した民俗に由来していると考えられます。それは、成人しない間は人ではなく神の管轄下(異界に近い存在)にあるという意識があったためと思われます。幼くして死んだ無垢なる魂は、神の下へ帰ったと考えられたのでしょう。やがて境界へ送られた幼き死霊の管轄者・守護者として、境の神々が想定されるようになったと考えられています。

 この他、仏典に拠るものとしては、土地の神である堅牢地神、障礙神としての荒神歓喜天(聖天/象頭神)などがあります。これは、本来これらの持つ一切法の障礙を為す(妨害する)機能を、悪しきモノをも防ぎ遮ると解釈したためと考えられています。


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 次に、所謂「神様」としては、どのようなものがあるのでしょうか。

 例えば、道や行路を司る神(猿田彦、大陸の道祖)や山や峠に祀られる神(荒神山神柴神)も境界を司ります。これら神々は様々な要因から、最も一般的な境の守護神たる道祖神と習合しており、今やその本義を捉えるのは困難です。これら神仏が同一の機能を担った別神格であったのか、或いは習合によって性質が付加されたのかも判然としません(最新の研究は把握していませんが)。また、峠や山道に塚を築いたり、石を積んだり、小枝を備える風習もこれら境界の神仏への信仰と結びついていたものと思われます。

 境界と関係があると思われる神格はこの他にも数多くあるようです。橋に祀られる橋姫明神が有名でしょうか。咳の神様に転化した「関のオバサマ(塞ノ姥様)」、三途河(しょうずか)の婆も橋姫に連なる、境界に祀られる神格の一種です。なお、精進(しょうじ)・三途河・葬塚(そうづか)などは「さえぎる(障、塞)」を意味する言葉から来ているとも言われています。加えて三途川の婆とは奪衣婆であり、生と死の境界である賽の河原へとも繋がってゆくのです(賽の河原は道祖神とも関わりが深い)。
 さらに、椿を背負う八百比丘尼、道祖神と同体と思われる石神(社宮神)、杓子様、佐久神、さらには結界の呪具、注連縄の注連(ちゅうれん)と関係があるとも言われる十禅師、陰陽道や道教との関係も指摘される種々の行疫神、王子神(御子神・若宮)、方位への信仰とも結びつく大将軍、金精神、子ノ神など、枚挙に暇がありません。
 とにかく、我々の周りには、様々な名で呼ばれ、多様な形式を持った無数の境界の神仏が祀られていたのです。


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 最後に、最も有名で代表的な境を護る神、道祖神について見て行きたいと思います。
 道祖とは、本来大陸における神、共工氏の子で、行路の神とされたものです。これが我が国の境の神、塞の神と習合し、境の神・道の神として信仰されるようになったと考えられています。
 平安中期の辞書『和名類聚抄』には「道祖、佐部乃加美」とあります。このサイノカミ・サヘノカミと呼ばれ、「塞の神」と表記する神も、またドーロクジン(道禄神/道陸神)と呼ばれる神も、同じ神格とすることが多いのです。
 塞の神は、我が国では、境の神として信仰されてきた古い神です。『古事記』に道返(ちがえし)大神、塞坐黄泉戸(よみどにふさがります)大神と記された神もそれとされています。さらに、岐神(ふなどがみ)というのも同じ神格と考えられています。また、先述のように、大陸の行路の神と習合したことから、道の神としても信仰されました。後には八街(やちまた)の神としての猿田彦命、あるいは伊弉諾尊伊弉冉尊(伊邪那岐・伊邪那美)と同一視されることもありました。仏教では地蔵菩薩と習合したのは以前述べた通りです。

 塞(さえ)は障えるの障えであり、遮り、防ぎ止めるという意味であると言われています。つまりこの神の本義は、外から訪れる悪霊や疫病などの災いを遮り、境界を護ることだったと考えられているのです。時代が下ると、御霊信仰や行疫神の信仰などが重層し、極めて複雑な様相をなすようになったようです。時に除災や縁結び、夫婦和合の神とされる場合もあります。

 また、虫送りや疫神送りなど災いを異界へ送り返す儀礼の多くが、この神の祭場で行われます。一方で道祖神の祭りは、幸神祭、どんど焼き、さいとばらい、三毬杖(さぎちょう)などと呼ばれ、しばしば火祭りと習合しています。これらの祭りは、多くの場合子供が管轄します。これは、境界の神が幼き魂の管理者で、小さき者の守護者であったことを偲ばせます。
 なお、賽の河原の「賽」も、元々境界を示す塞(さえ)とされます。賽の河原は、やがて生と死との境界領域と見なされるようになりました。そしてそこの境界を守る神霊が地蔵であり、塞の神であったのです。
 道祖神の神体は、多く路傍の石で、自然石の他に、双体の神像や文字碑、陰陽石などがあります。また人形を祭る場合もありました。

 道祖神は、同じような機能を持つ様々な神格と習合し、また信仰形態も地域差が大きいなど、極めて多種多様な要素を持った神様なのです。


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終章.境の殺戮


 これまで、境界を守護する様々な神仏を見てきました。その中には、「元人間」が居たことにお気づきかと思います。最後に、そうした存在が何故境を護る神霊として祀られたのかについて考えてみたいと思います。

 こうした「人間」は、大きく二つの種類に分けられるようです。
 一つは、不慮の死を遂げた人物、あるいは激しい恨みや怒り、妬みなどの激烈な感情を有した人物です。強い感情は強い霊的な威力へと結びつけられたのです。そうした威力は、天災や疫病の形で人々に災をもたらすこともありますが、反対にこうした災厄を防ぎ止める力ともなると考えられていたのです。これは御霊信仰と呼ばれ、平安時代以降広く行われました。
境の殺戮
 人々は、種々の儀礼や供儀によって、こうした荒ぶる霊魂を統御しようとしたのです。祇園信仰や天満宮、疫神送りなどはその一種です。

 もう一つは何らかの理由で神に近いとされた人間です。子供や巫女、座頭など様々な例があります。こちらは生贄や人柱伝説との関わりも深くなります。これらの人々は神に親しかったが故に、時に神そのものと見なされ、時に神へと捧げられたのです。
何れにせよ、強大なる威力を持つと考えられたが故に、これら「荒人神」は、共同体にとって重要な境界に祀られたのです。

 このように、境に祀られる「元人間」の神霊は、我が国でかつて行われた人を神に祀る行為の一例と考えられているのです。しかし、境界におけるこの種の伝説には、しばしば陰惨な伝説を伴っています。つまり、時に人々はこうした「境界を守るモノ」を製造したと考えられるのです。
 境界で“殺され”たのは人形だけではなかったのです。


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 例えば、村境や峠などに、塚を築く風習がありました。そこは境界に関わる様々な儀礼が行われ、また境の神々が祀られる場でもありました。ところが、それらの塚の由来として、多く血なまぐさい伝説が残されているのです。
 曰く、落ち武者が自害したのを葬った。曰く村と村との諍いで出た死人を埋めた。蛮賊を誅して屍体を分割して塚を築いた、殺された旅人を葬った、……………。
 これらは、共同体の防御を担う神霊、即ち怨念・悪霊を得るために、境界において人を虐殺した伝説の残滓と考えることができるのです。

 屍体を分割して埋めるという風習も、御霊信仰に関連する、人を神とする作法の一つと思われます。首塚、胴塚、足塚などがその顕著な例です。このような塚として最も有名な例が平将門であることから想像できるように、塚に祀られる対象の多くは異人、あるいは反逆者であり、まつろわぬ者達でありました。例え敵であっても、その荒ぶる霊魂を上手に統御すれば、境を守護できると考えられていたのでしょう。
 それらの伝説は、は平将門のような歴史的人物について語られることがある一方で、京都老ノ坂の酒呑童子の首塚、陸奥尾崎神社の伝承(朝廷軍に破れた“鬼”のばらばらになった遺骸の一部が流れ着いた)に見られるように、人とすら見なされなかった者達や妖怪達を対象として語られることもありました。
 共同体(国家レベルも含む)は、時に“我われ”と異なる存在を抹殺し、さらにはそれを利用して己の保身を図ったのです。

 このような屍体分割の伝承について、柳田國男はこれを蚩尤伝説と称しています。蚩尤伝説は、一般には大きな力をもつ存在を倒した後に、その復活を恐れて遺骸をばらばらにするというものです。しかし、柳田によれば、生きている人間の各部には、神というべき存在が共にあり(倶生神)、かつてはこれを分離して祀ろうとした風習があったことを示す伝説であるということになります。源三位頼政の鵺退治の伝説(鵺塚)や、外法の髑髏、耳塚もこの思想とつながりがあります。
 各地の首塚などが民俗社会で長く信仰の対象とされたのも、単なる武家に属する施設ではなく、境界の神としての性格があったからなのです。


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 こうした神霊製造の伝説は、一方で生贄(人身御供)や人柱の伝説に近接してゆくことになります。本来、人身御供や人柱は神への捧げ物であり、その最上のモノとして人間が選ばれた訳です。ところが、こうした伝説を見てみると、捧げられた存在が神として祀られていることがしばしばあるのです。これは、実はその犠牲者は元々何らかの神格へ捧げられたのではなく、そこへ祀る神霊とするために生贄とされたのではないでしょうか。つまり、神霊製造の一つの形態として、人身御供や人柱があったと考えることができるのです。

 ここで、言っておかなければならないことがあります。それはかつての民俗社会における死生観についてです。近代以前は生きるということが現在とは随分違っていたと思われます。現世は苦難に満ち、天災や戦争、疫病など、自分の力ではどうにもならない事が沢山あった時代です。現代の死生観や倫理観を、無批判に過去に持ち込んではいけません。
 かつては命、特に神に近しい命について、現在の死生観とは異なるものを持っていたようです。輪廻転生が信じられ、そして神に近しい人間が、かりそめの生を離れることで、より貴き存在(神)に生まれ変わることができると信じられていたのなら、命を絶つ行為を単純に非難することはできません。昔話などで多くの死が語られるのは、単に「残酷」なだけではないのです。
 以下には、そのことを述べた柳田國男の文章を引用しておきます。

 「死んでもすぐにまたもっと美しく、生まれ変わって来ればよいじゃないかという思想を、ことに久しい後まで東洋の我々は有(も)っていたのである。人柱や生牲もその一つの現われと認められているが、神に仕うる者のすぐれて清きものは、一般に一旦の生を去って後、さらにより高き地位に登るものと信ぜられていた。つまりは人を新らしい神にする信仰を、我々は抱いていたのである」(「瓜子織姫」『桃太郎の誕生』)


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 それでは次に、こうした当時の死生観や神概念を表す例の一つとして、子供の霊魂に関する信仰を見てゆくことにしましょう。子供と言うよりは“童子の姿の神霊”と言う方が正確かも知れません。
 境界との関わりはやや薄くなりますが、しばしば「七歳までは神の内」と称されるように、人と異界との境界領域に留まる曖昧な存在とも言える子供の霊魂について触れておくのも有用であると思います。ちなみに、“水子”のような概念は極めて新しいものであるので、ここでは扱いません。

 代表的なものとしては竃神(かまどがみ)の由来譚があります。屋内に祀られる竃の神の前世譚ですが、これにはしばしば陰惨な説話が付随しています。『神道集』の「釜神の事」などからそれをうかがうことができます。この話は、善行への報いとして贈られた童子(龍宮童子や心得童子のように、福や財をもたらしてくれる存在)が、何らかの理由で殺され、その後竃神として祀られるようになったというもので、同時に竃に懸ける醜怪な面(童子の容貌を象ったものと言う)の由来譚にもなっています。
 陸前地方ではこの由来譚はヒョウトク譚(火男、竃仏と称する場合もあると言います)として知られています。同地域のウントク譚も類似の説話で、暗い奥座敷(※奥座敷は日常空間とは異なる領域であることに注意)に潜んでいたウントクと言う醜い童子を追い出したところ、それまで裕福だった家が忽ち貧乏になってしまったというものです。
 これはもはや座敷童子の伝承に近く、民俗社会における家の盛衰を説明するための装置と考えることもできます。

 座敷童子は、家に憑く一種の守護霊と見なされます。彼等は多くの場合ある家から“出て行く”所を目撃されることで、その家の衰退を説明する訳ですが、その出自からも民俗社会の暗部を垣間見ることができます。それは、座敷童子は若葉の霊魂が化したものと言われることがあるからです。
 若葉とは急死したり無惨な最期を遂げた童子を指します。飢饉などに際して口減らしなどのために殺された嬰児は、決して屋内より出さず、必ず土間の踏み台の下か、石臼場のような、繁く人に踏みつけられる場所に埋められました。その霊魂は屋内に留まり、梁の上で時々悲しそうな声で最期の言葉を呟いている事があると言います。
 座敷童子の如き子供の姿の神霊や妖怪も、かつての人を神とする信仰の断片なのかも知れません。


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 これまで、人を(殺して)新しい神とするという考えについて述べてきました。そこでは強い感情を持った荒ぶる魂が神となるという“御霊”を扱いました。ところが一方で、そうした神と成るべき存在について、峻酷な御霊だけでなく、若々しく無垢な魂がふさわしいとも考えられていたと思われるのです。 ですから、殺戮される対象はしばしば子供であり、また逆に、子供の霊魂は神に近いという認識を持っていたが故に、神霊を童子の姿としてとらえる事があったのだと言うことができるかもしれません。


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 こうしたことを踏まえて、境界の神霊の背後に見え隠れする、人柱や人身御供の伝説を考えてみたいと思います。
 なお、人身御供の伝説は、広く世界中に見られるものです。古代アルメニア人やケルト人、メキシコ人の例がよく知られています。また、人類学者フレーザーが『金枝篇』で取り上げたネミの森の王殺しの風習や、アドニスやアッティスの神話もこの範疇でしょう。柳田國男が「一つ目小僧」において一年神主殺害の説を唱えた際に、フレーザーが大きな影響を与えたことは有名です。

 我が国でも、この種の伝説は古くから知られていました。既に日本書紀の仁徳天皇の条には人身御供についての記述があります。記紀に記された奇稲田姫や弟橘姫の物語からも同様の概念の存在がうかがえます。そして後の『今昔物語』や『神道集』などを通じて、一般にも人身御供や人柱の伝説が流布してゆくことになったと思われます。
 歴史上実際にこうした行為があったか否かははっきりしませんが、近世になっても城郭や築堤に関して人柱の噂が存在したことから、少なくともごく最近まで「あり得ること」と一般には認識されていたと考えられます。


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 さて、これまで述べて来た様に、こうした伝説は境界の神霊と深い関係を持っています。次にはその関係を集約的に示す橋姫の伝説について述べたいと思います。
 橋姫は『神道集』「橋姫明神事」に「そもそも橋姫と申す神は日本国の内大河小河の橋を守る神なり」とあるように橋に祀られる神格です。宇治や長柄、淀などの橋姫が良く知られていたようです。 橋姫伝説の中で最も有名なのは、宇治の橋姫の物語でしょう。古くは古今和歌集にその名が見られ、『平家物語』剣の巻でも描かれました。嫉妬深い女性が化した女神とされ、謡曲鉄輪に登場する貴船の女の姿と重なります。

 良く知られているように、橋は境界の一種であり、其処に祀られる橋姫も境の神としての性格を持っていたと思われます。そこで注目されるのは、橋姫の持つ嫉妬深いという性質です。先述の宇治の橋姫の起源譚や、各地に残る橋に関する伝説からもそれをうかがうことができます。例えば甲府の国玉(くだま)大橋では謡曲「葵の上」或いは「野宮」を謡うと道を失ったと伝えます。同じ内容の伝承が大月市の猿橋にもあります。また一方の橋の上で他方の橋の話をすると怪異が起こったなどとも伝えられています。いずれも嫉妬心と関わりがある内容と考えることができます。かつては女神の嫉妬を避けるため、婚礼の際には通るべきでないとされた橋が幾つも有ったそうです。
 おそらく嫉妬という強い感情が強力な神威の源泉となると考えられたのでしょう。故に橋姫は気性が激しく、時に人を脅かす怖ろしい存在でありました。その一方で旅人や幼子を守護し、幸運や富貴を与えることもあったのです。因みに、己が命の早遣いとして知られる伝説に登場する女神?もしばしば橋のたもとに登場し、人の命を奪う程の凶暴な災厄の授与者と、福徳を与える穏和な援助者の二面性を持っています。
 これらの両義性・二重性は、慈愛に溢れた守護神としての特徴と、敵対者へ呵責無き攻撃を加える酷薄な祟り神としての特徴を併せ持つ、境の神霊によく見られる両義的な性質に類似しています。 

 ところで、こうした橋姫の起源譚には、鉄輪タイプとは別に長柄の橋姫明神に代表される、人柱伝説に基づく一群があるのです。
 有名な長柄の橋の人柱伝説は、提案者自身が人柱にされてしまうという物語です。「物イヘバ長柄ノ橋ノハシ柱 泣ズバ雉ノトラレザラマシ」あるいは「物言ヘバ父ハ長柄ノ橋柱 泣ズバ雉ノ獲ラレザラマシ」などの歌と共に語られます。このモティーフは、既に南北朝期の『神道集』に現れています。この他にも、江戸の蛇橋や信濃の犀川などには同じような橋にまつわる人柱の伝説が残されています。
 この種の物語では、言い出した者が、あるいは自ら進んで命を捧げたように描かれる場合も有ります。しかし、人選はしばしば個人や家族の意志を越えた強制的なものとなり、悲劇的な様相を示します。通りかかった者を捉えたり人買いから買ったりと、余所者や弱者を人柱に仕立てたという話が沢山あるのです。それらの多くは幼い子供を背負った女を生き埋めにしたり、子供のために僅かな食べ物を盗んだ親を人柱とするなど、悲惨な内容のものです。それらの物語は、片身の梅(方端梅、方輪梅等)や片割シドメ(クサボケ)の悲惨な伝説と共に語り継がれているのです。


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 こうした伝説の多くで、人柱とされたのが母子であったことも注目されます。これは水辺に祀られる神霊の由来としてしばしば語られるもので、八幡信仰とも関わりを持っていたと思われます。実際に祀られたのは、人柱を捧げられる側の「神」ではなく、生贄である「人間」の方であるということが重要です。
 柳田國男はこれらを、人を神に祀る習慣をうかがわせる伝説であると考えました。“元”人間の母と子が信仰の対象であったことを示していると考えたのです。つまり、伝説が示すのは、「人間が神に捧げられたこと」なのでは無く、むしろ「人間が死ぬ(殺される)ことにより神となったこと」であるということですね。そしておそらくその母子は、賀茂神話に見られる阿礼乙女(巫女、神の妻)と御子神(少童)のような存在に重ね合わされていたのだと思われます。

 一方、少女を生贄に捧げたという伝承も数多く残っています。特に有名なのが松浦佐用姫の物語でしょう。本来の佐用姫は万葉集・風土記などに大伴狭手彦との悲恋物語の主人公として登場するのですが、他方では水の神へ捧げられる生贄の名として各地(特に奥州)に伝説を残しています。
 さらに、各地の人柱伝説で生贄となる娘の名の多くも「サヨ」でありました。また、「サヨ」の名を持つ娘に関する伝説として、九州の路傍や辻にある石の神の由来があります。これらの由来譚にはしばしば旅の父娘が死んだという悲惨な物語が伴い、生贄の伝承と類似した性格を持っていたのです。
 これらのことなどから、柳田國男は、佐用姫の「サヨ」とは境界を司る神霊の代表的存在である塞の神(道祖)の「サイ」・「サエ」と同じものであると考えていました。彼女達はその命を引き換えに一種の御霊となり、橋をはじめ水辺や辻などの境界に在って、共同体を災厄から守ったのです。

 いずれにせよ、こうした生贄・人柱伝説の存在は、境において人を殺し御霊を製造するという信仰が、かつて存在していたということを暗示している、と考えることができるのです。


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 共同体は、外部から侵入する様々な災厄や危機を防ぐ為に、境界に祀る神霊を製造しました。それは多くの場合、強い思いを持った者を利用するという形を取りました。その“思い”とは、時に嫉妬であり、怒りであり、怨みでした。また、境を守護する神霊は、時には若く無垢なる魂を要求しました。
 そこで犠牲、生贄として選ばれたのは、多くの場合、共同体を構成する“我等”とは異なる「異人」、即ち共同体の外からやってくる“彼等”だったのでした。世に知られた御霊は何れも歴史的にも名の知られた人物ですが、各地の伝説や昔話に登場する犠牲者の多くは、通りがかりの旅人や、六部、琵琶法師、歩き巫女、人身売買された少女達などの名もなき人々なのです。
 いわば、境界で守られる民俗共同体は、こうした“彼等”の犠牲の上に平穏な日常を築いていたのです。

 しかし、これらの殺戮は、決して個人的な欲望の為に行われた訳ではありません。それはあくまで、共同体の危機に対抗するための最後の手段だったのです。ですから、共同体の側も、こうした悲劇に無関心だったわけでは無いのです。境の殺戮の物語は、悲惨な伝説として共同体で語り継がれ、犠牲者は何時しか神として祀られるようになります。
 このように、自らの罪を伝説として語り継ぐことは、一種の贖罪行為であったのかもしれません。

 この点で、“境の殺戮”は、近世の所謂「異人殺し」とはやや異なっていると言えましょう。「異人殺し」が、民俗社会における貨幣の普及と経済構造の変化に背景を持ち、家あるいは夫婦の単位で、専ら己の利益のために行われるのに対して、“御霊の製造”において異人達が殺されたのは、共同体全体の危機を救う為だったのです。

 かつての共同体は、境の殺戮によって境界を守護する神霊を製造し、危機の回避を図ったのです。結局、概念的に言えば、共同体はその異人達の死によって、災厄から救われたのです。

 ……そして、命と引き換えに共同体を救った彼女達はその後、神となったのです。


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(了)

参考文献


 1)「八雲」関連
  ・倉野憲司,武田祐吉校注『古事記・祝詞』岩波書店1993(『日本古典文学大系』1)
  ・柳田國男『一目小僧その他』(『柳田國男全集6』筑摩書房1989)
  ・平川祐弘監修『小泉八雲事典』恒文社、2000
  ・谷山茂ほか『新修国語総覧』京都書房1977


 2)「ゆかり」関連
  ・佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波書店1958(『日本古典文学大系』8)
  ・小沢正夫校注,訳『古今和歌集』小学館1971(『日本古典文学全集』7)
  ・佐伯梅友,森野宗明,小松英雄編集『例解古語辞典』三省堂1980


 3)「紫色」関連
  ・武井邦彦『日本色彩事典』笠間書院1978
  ・長崎盛輝『日本の伝統色』京都書院1996
  ・吉岡幸雄『日本の色辞典』紫紅社2000
  ・風見明『「色」の文化誌』工業調査会1997
  ・吉田賢抗『論語』(『新釈漢文体系1』明治書院1976)


 4)「学校の怪談」「都市伝説」関連
  ・常光徹『学校の怪談』ミネルヴァ書房1993
  ・池田香代子ほか編著『ピアスの白い糸』白水社1994
  ・近藤雅樹ほか編著『魔女の伝言板』白水社1995
  ・池田香代子ほか編著『走るお婆さん』白水社1996
  ・近藤雅樹『霊感少女論』河出書房新社 1997
  ・根岸鎮衛(柳田国男,尾崎恒雄共校)『耳袋』岩波文庫1949
  ・木原浩勝・中山市朗『新耳袋』扶桑社1990


 5)「神隠し」関連
  ・柳田國男『山の人生』(『定本柳田國男集4』筑摩書房1963)
  ・柳田國男『遠野物語』角川書店1955
  ・松谷みよ子編『現代民話考』(第一巻「河童・天狗・神かくし」)立風書房1985
  ・小松和彦『神隠し』(文庫版は『神隠しと日本人』)弘文堂1991
  ・川村邦光『幻視する近代空間』青弓社1990
  ・佐竹昭広『酒呑童子異聞』平凡社1977
  ・知切光蔵『鬼の研究』大陸書房1978
  ・馬場あき子『鬼の研究』三一書房1971(ちくま文庫1988)
  ・知切光蔵『天狗の研究』大陸書房1975
  ・赤坂憲雄『山の精神史:柳田國男の発生』小学館1991
  ・泉鏡花『龍潭譚』(『鏡花短篇集』岩波書店1987)


 6)「境界論」関連
  ・柳田國男『妖怪談義』講談社学術文庫1977
  ・柳田國男「賽の河原の話」,「子安の石像」(『柳田國男集27』筑摩書房1970)
  ・柳田國男「西行橋」,「細語の橋」,「橋の名と伝説」(『柳田國男全集7』筑摩書房1990)
  ・柳田國男「子安地蔵」(『柳田國男全集7』筑摩書房1990)
  ・宮田登『妖怪の民俗学』岩波書店1985
  ・小松和彦『妖怪学新考』小学館1994
  ・小松和彦『憑霊信仰論』講談社学術文庫1994
  ・小松和彦「生と死の境界」(『現代詩手帖』思潮社1995.6)
  ・小松和彦『妖怪文化入門』せりか書房2006
  ・柳田國男ほか『境界』(小松和彦編『怪異の民俗学8』河出書房新社2001)


 7)「生贄,人柱論」「御霊信仰」関連
  ・高木市之助ほか校注『平家物語』岩波書店1959-60(『日本古典文学大系』32,33)
  ・池上洵一編『今昔物語集』岩波書店2001
  ・貴志正造訳『神道集』(『東洋文庫94』平凡社1967)
  ・野上豊一郎編『謡曲全集』中央公論社1971
  ・柳田國男『石神問答』(『柳國国男全集15』筑摩書房1990)
  ・柳田國男『巫女考』(『定本柳田國男集9』筑摩書房1962)
  ・柳田國男『妹の力』(『柳田國男全集11』筑摩書房2000)
  ・柳田國男『妖怪談義』(前述)
  ・柳田國男『一目小僧その他』(前述)
  ・柳田國男『桃太郎の誕生』(『柳田國男全集10』筑摩書房1990)
  ・柳田國男「十三塚」,「十三塚の分布及其伝説」,「境に塚を築く風習」,「七塚考」,「塚と森の話」,
        「耳塚の由来に就て」,「民俗学上に於ける塚の価値」(『定本柳田國男集12』筑摩書房1963)
  ・柳田國男「神送りと人形」(『定本柳田國男集13』筑摩書房1963)
  ・折口信夫「さへの神祭り」(『折口信夫全集15』中央公論社1955)
  ・折口信夫「道の神境の神」(『折口信夫全集16』中央公論社1956)
  ・矢代和夫『境の神々の物語』新読書社1972
  ・宮田登「献身のフォルク」(『献身』弘文堂1975)
  ・小松和彦『悪霊論』青土社1989
  ・小松和彦『異人論』筑摩書房1995
  ・野村純一「世間話と『こんな晩』」(『昔話伝承の研究』同朋社1984)
  ・赤坂憲雄『異人論序説』砂小屋書房1985
  ・飯島吉晴「異人歓待・殺戮の伝説」(『日本伝説大系』別巻1,みずうみ書房1989)
  ・青森県立郷土館編『東日本の神送り行事』青森県立郷土館2002
  ・六車由美『神、人を喰う』新曜社2003
  ・日野巌『植物怪異伝説新考』中央公論新社2006
  ・夏目漱石『夢十夜』岩波書店1986
  ・フレーザー(永橋卓介訳)『金枝篇』岩波書店1966
  ・フレーザー著、マコーマック編集(内田昭一郎,吉岡晶子訳)『図説金枝篇』東京書籍1994
  ・柳田國男ほか『異人・生贄』(小松和彦編『怪異の民俗学7』河出書房新社2001)


 8)全般
  ・国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館1979-1997
  ・諸橋轍次『大漢和辞典』大修館書店1984
  ・鎌田正,米山寅太郎『漢語林』大修館書店1987
  ・新村出編『広辞苑』岩波書店1986
  ・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典』小学館2000-2002
  ・民俗学研究所編『民俗學辭典』東京堂出版1951


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