天狗覚書(承前)

 0.緒言
 1.原天狗
 2.夜叉としての天狗
 3.山神としての天狗
 4.怨霊としての天狗
 5.他界の天狗
 6.結び
 7.参考
 8.参考文献




3.山神としての天狗

 さて、仏教の影響は受けたものの、障礙神とは異なる存在となった天狗もいる。ここでは神仏混淆の産物である山岳信仰に関わり、山神としての性格がより強い天狗を見てみよう。

 中世も後半に入ると、修験道の影響を受け、天狗の姿として山伏姿が一般的になってくる。兎巾を被り、結袈裟と篠懸の衣を纏い、一本脚の高下駄を履く姿である。そして手には羽団扇を持ち、刀や金剛杖といった武器を所持しているのが普通であるとされている。一方で、これら山に棲む天狗、特に大天狗達は、仏法を守護し、勧善懲悪的な性格を持って描かれることも多い。こうした場合には山の神の性格も併せ持つということができ、天狗に大力を授かったなどという遠野の伝説もこうした例の一つと考えることが出来る。
 このようにして、次第に山伏姿の大天狗が形成され、民間へ浸透し定着してゆく。だが、これは古代の山の怪の主役であった鬼に取って代わり、その地位を天狗が奪ったことを意味していると考えられる。そして同時に、鬼を祓うことで勢力を伸ばした陰陽師達の時代の終焉と、山岳密教や修験道の隆盛とを暗示していると考えることができる。

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 このような天狗については、謡曲「鞍馬天狗」に登場する大天狗がその典型といえよう。

 「抑(そ)もこれは、鞍馬の奥僧正ヶ谷に、年経て住める大天狗なり

 著名な大天狗の住処とされる山は、何れも山岳信仰の中心地として知られる場所である。例えば八大天狗と呼ばれる存在がある。京の都は愛宕山の太郎坊、近江比良山の次郎坊、信濃戸隠の飯縄三郎、鞍馬の僧正坊、熊野大峯の前鬼・後鬼、山陰の大山伯耆坊、四国は白峰相模坊、九州の彦山豊前坊の八人の天狗のことであると伝えられる。ただし大山の天狗は清光坊とも言う。また、神奈川の大山の天狗の名も又伯耆坊という。さらに、鞍馬山には牛若丸こと遮那王に兵法を伝授した魔王大僧正という天狗もいる。この天狗は毘沙門天の化身と伝えられ、その本体は愛宕太郎坊と共通である。おそらくこの二体は同一の天狗なのであろう。八大天狗の方の鞍馬僧正坊の本体は、弘法大師の孫弟子の一人壱演僧正ともいわれている。この辺りは伝承が錯綜しているようであり、曖昧な部分が多い。この他にも富士山の太郎坊、白山白峯大僧正、比叡山法性坊、叡山横川の覚海坊、葛城山高間坊、如意が嶽薬師坊、高雄内供奉、妙義山妙義坊、筑波山の筑波法印、日光隼人坊、相模最乗寺の道了尊、秋葉山三尺坊、羽黒山羽黒坊などが固有の名を持つ天狗である。ただし、これらは実際には単一の天狗固有の名前というより、その山に居る天狗の集団名として見る方が良いという説も存在する。また、ここでは、役行者の使役神として有名な前鬼後鬼が天狗の類とされている。このような分類からは、鬼と天狗や式神との境界が、実際には曖昧なものであることが良く分かる。
 ところで、八大天狗第一位には、愛宕山の太郎坊が挙げられている。この愛宕山における天狗信仰は古く、平安時代からその信仰の拠点であったと考えられている。このことを示すものに、保元の乱の遠因となったとされる噂がある。それは左大臣藤原頼長が近衛天皇を呪詛したとの噂である。これによって鳥羽上皇・藤原忠通と藤原忠実・頼長の対立が生まれ、後の保元の乱へと繋がったと伝えられる。このような噂が流れたということは、歴史的事実であるらしい。その際に頼長が行ったとされる呪法というのは、愛宕山の天公(=天狗)像の眼に釘を打ち込むというものであった。このことから逆に、保元の乱(西暦1156年)の頃までには既に天狗の像が愛宕山に祀られていたということが分かる。ちなみに、この近衛天皇呪詛事件は、玉藻前伝説つまり九尾の狐の伝説とも関わりを持つらしい。

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 なお、鞍馬寺には、室町時代後期の著名な画家である狩野元信が描いたと伝えられる天狗の像が残されているという。これはときの将軍の夢に現れた鞍馬の大僧正の姿を写したもので、将軍の命により元信が描き、鞍馬寺に寄進されたものだという。その鼻高く嘴の尖った山伏姿の天狗は、今日のものとほとんど変わらない。一説には世間に流布した鼻高の天狗像を創り出したのは、狩野元信その人であるという。

 ここで、鳥類天狗と鼻高天狗との歴史的な関係について述べておきたい。所謂鼻高天狗は江戸時代以降に流布したイメージである。現在では天狗のイメージとしては、鳥類天狗よりもこの鼻高天狗の方が一般的であると思われる。このイメージの源泉は、先に述べた様に、胡徳面などの鼻の高い面であると考えられている。しかし、江戸時代になってから何故このようなイメージが広まったのかはよく分かっていない。同時に鳥類天狗の正体も鳶から烏へと変わり、鼻高天狗の眷属という位置付けに零落してしまう。これらの変化は、近世初期の乱世から太平の世への変化や、山岳信仰や修験道などの宗教界をも含んだ体制の解体と再構成とが影響しているのではないかと考えられる。

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 ちなみに、天狗と毘沙門天が習合してしまうのには少し背景がある。毘沙門天は多聞天ともいう北方を守る四天王の一人だが、元々はインドの鬼神であったとされている。インドでの名をヴァイシュラヴァーナ(Vaisravana)といい、その音訳が毘沙門天であり、意訳が多聞天である。またその別名はクベーラ(Kubera)というが、それは夜叉の王であり、又財宝の神でもあると伝えられる。インドではむしろこのクベーラとしての神格の方が有名だったらしい。クベーラは夜叉を使役して鉱山で貴金属や宝石を採るという。武神たる毘沙門天が、七福神の一柱としても祀られるのはこうした由来があるからだと考えられている。そしてこの夜叉が、本邦へ移入される過程で天狗と同一視されたと考えられている。従って天狗と毘沙門天との間には関係が生まれるという訳である。先に仏法を妨げる夜叉飛天と天狗との関わりについて言及したが、ここでも再び夜叉と天狗との関係が表れてくるのである。ちなみにインドの夜叉と習合したものの一つには狸がある。佐渡の団三郎狸が金山と関わりを持ち、財宝を持っているというのは、こうした夜叉達と日本の狸が同一視されたからと考えられている。

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 さて、さらに厄介な存在なのは飯縄三郎と呼ばれる天狗であろう。
 飯縄山の修験者は飯縄の法と呼ばれる方術を駆使する事で知られているが、この飯縄の法とは荼吉尼天法とも称される外法である。これは荼吉尼天の眷属たる野干、あるいは管狐その他の霊獣を使役するとされる邪法である。この荼吉尼天と同体とされるのが先程も少し触れた飯縄権現なのだが、飯縄三郎はこの飯縄権現そのものであるともいう。先にも述べたように、飯縄権現は図像的に見ても荼吉尼天・不動明王・天狗が習合したものと考えられる。すると稲荷=狐=仏教の鬼神たる荼吉尼天=飯縄権現=飯縄三郎=天狗と展開する事が可能となる。このようにして見てゆくと、天狗への信仰は、狐や稲荷信仰に極めて近いものでもある事をうかがうことができる。従って天狗への信仰は、管狐やイヅナなどの憑物の信仰とも関わり、極めて複雑怪奇な様相を呈することになる。

 ちなみに、飯縄権現は火伏せの神としても有名である。信濃飯縄山をはじめ、静岡の秋葉山、武蔵高尾山などに祀られている。江戸府内秋葉原(あきばはら)の地名の語源となった秋葉神社の祭神もこの神と同体である。

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4.怨霊としての天狗

 今度は人間が化した天狗について、即ち増長した僧や恨みを持って死んだ人間が化したと言われる天狗達について述べてみたい。

 中世になると、強い怨念を持って死んだ者が天狗になるという考え方が生まれて来る。仏教の悪魔的存在の魔縁も、こうした怨霊の化した天狗と見なされるようになる。また怨霊が人に憑いたことを天狗憑きと称することもあった。

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 こうした怨霊的要素を持った天狗として最も高名なのは、崇徳院であろう。『保元物語』(鎌倉初期)によると、崇徳院は怨念の為に、経文に血で呪文を記し、生きながら天狗となったという。続いて『源平盛衰記』の「讃岐院事」や『沙石集』(無住道暁編、弘安六年(西暦1283年))にも同様な考え方が示されている。
 崇徳院の生涯とその伝説についてここで簡単に触れておこう。父の鳥羽上皇から疎まれ不遇の時を過ごした(母は鳥羽院の皇后璋子であるが、実父は鳥羽天皇の父白河法皇と言われている)崇徳院は、異母弟である後白河天皇との対立から保元の乱を起こす。しかし敗北し、崇徳院は讃岐に流される。せめて、自らが写した経典だけでも都へ帰して欲しいと大乗経を都へと送るが、後白河方によって突き返されてしまう。「後世のためにと書きたてまつる大乗経の敷地をだに惜しまれんには、後世までの敵ござんなれ。さらにおいては、われ生きても無益なり」と絶望した崇徳院は髪も爪も切らず、生きながら凄まじき姿へと変貌したという。院は「日本国の大魔縁となり、皇(すめらぎ)を取って民となし、民を皇となさん」と、舌の先を食いちぎり、その血を以て大乗経に呪詛の誓文を記して海に沈めたと伝えられる。その様子を『源平盛衰記』は「柿の御衣の煤けたるに、長頭巾を巻きて、大乗経の奥に御誓状を遊ばして、千尋の底に沈め給う。その後は御爪をも切らせ給わず、御髪も剃らせたまわで、御姿を窶し悪念に沈み給いけるこそおそろしけれ」と『保元物語』は「生きながら天狗の姿にならせたもうをあさましき」と表現している。長寛2年(西暦1164年)、崇徳院は瞋恚に燃えた九年の日々の後に崩じた。『源平盛衰記』によればその葬儀の際に、柩から血が溢れ出し、柩が置かれた石を真赤に染めたという。その場所には「血の宮」の地名が残されている。さらに荼毘の煙は風に逆らって都の方角へと靡いたと伝えられる。
 なお崇徳院の祟りの噂は、死後すぐに生じたようである。既に後白河院の病気や平清盛の死についても、崇徳院の祟りのせいだと信じられていたようである。祟りを怖れた後白河院や平氏は、讃岐院と呼んでいた崇徳上皇に「崇徳院」の名を贈ったり、慰霊のための寺(頓証寺、後白河上皇)を建立したり、陵へ参拝するなど、崇徳院の御霊を鎮めるために様々な行為を行っている。因みに保元の乱の上皇方の一人悪左府藤原頼長失脚の遠因となったのは、本稿第三で触れた愛宕の天狗像に関わる呪詛事件であった。

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 やがて肥大化した崇徳院の御霊は、魔界の天狗達を束ねる魔王としてイメージされていくことになる。これらのまとめとも言える記事が『太平記』(応安三〜四年(西暦1370〜71年)頃)にある。朝廷を恐れさせた崇徳院の御霊の、魔王・大天狗としての再登場でもある。『太平記』巻二十七「雲景未来記事」では、南北朝の動乱は崇徳院、後鳥羽院、淳仁天皇(淡路廃帝)、後醍醐院や真済、頼豪、玄ムなど不遇の僧侶、源為朝や井上皇后らが起こしたものだとしている。まさに御霊としても知られる非業の死を遂げた者達の勢揃いという様相である。いずれの人々も不遇のうちに生涯を終えた高位の人物で、怨霊として極めて著名である。ここで天狗達の中心的存在たる崇徳院は金の鳶の姿で現れる。『太平記』にはこの他にも、巻二十五「宮方怨霊会六本杉事」に天狗と思しき怨霊の話が掲載されている。ここでは大塔宮護良親王を始めとする南朝方の怨霊が現れるのだが、その姿は嘴と長い翼を持つと表現されている。この姿はまさに天狗に他ならない。以下に原文を引く。

  「眼ハ如日月、光リ渡リ、觜長(ながう)シテ鳶ノ如クナル
  「眼ノ光尋常(よのつね)ニ替テ左右ノ脇ヨリ長(ながき)翅(つばさ)生出タリ

 また、これらの記事に依れば彼ら天狗道に堕ちた者には一日三度、熱い鉄を呑むという苦役が科せられるが、その代わりに世に兵乱をもたらすことも可能にする神通力を得るという。
 時代は下るが、林羅山の『本朝神社考』も彼らの容姿を伝えている。

  「歴代天子の中、讃岐院は金色の大鳶と為れり。長一丈余、後鳥羽院は被髪長翼の沙門と為り、後醍醐院は高鼻勾爪の王となりて、五緒の龍車に乗る。その余猶多し

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 さて、平安時代の最も高名な御霊、菅原道真は雷神、即ち鬼の姿でイメージされていた。ところが、やや時代が下る崇徳院の頃になると、御霊・怨霊が天狗としてイメージされるようになった。これには理由があると考えられている。つまり当時、鬼への信仰よりも天狗に対する信仰が強くなってきたことを示していると考えられているのである。そしてその原動力となったのが修験者や山伏といった宗教者であったと考えられている。これは、呪術者の主流が、陰陽師系統から山岳密教や修験道の系統へと変化したということでもある。
 また、先に記したように天狗の伝承を色濃く伝える『太平記』の作者が、児島法師という説があるが、この児島法師とは、熊野修験道の分派の児島五流修験道に属した山伏だったとも伝えられるのである。つまり、『太平記』とはそもそも、山伏達の視点から見た物語でもあった可能性があるのである。そこではこの世界のあらゆる災厄が天狗と結びついて語られる、一種の陰謀史観といったところであろう。

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 このことに関して、明治維新の際に朝廷が御霊を恐れて白峯神宮を建てたのは有名である。創建はまさに戊辰戦争の最中の慶応四年(西暦1868年)である。当時の朝廷にとっては、幕府や外国などより元身内の御霊の祟りの方が恐ろしかったという事を如実に示す出来事である。この白峯神宮の祭神は、まさに崇徳院と淳仁天皇なのである。最も、維新前に既に孝明天皇が、讃岐から京へ崇徳院の像を遷すことを計画していたらしい。

 ここに宣命の一部を引用する(原文は総漢字であるが、漢字仮名交じり文に書き改めた)。勅使がこの明治天皇の宣命を読み上げたのは八月二十六日、即ち崇徳院の命日であった。

  「天皇(すめらみこと)が詔勅(みことのり)とかけまくも畏(かしこ)き讃岐国阿野郡白峰の山陵に鎮座(しずまります)す崇徳天皇の御大前(みまえ)に恐(かしこ)み恐み申給わくと申さく。去(すぎ)し保元の年頃忌々しき御事より起りて其終には海路(うなじ)遙けき此国にさえ行幸(いでまし)て御鬱憤の中に崩御(かむあが)らせ賜えるは何なる禍神の禍事にや有けむ。最(いと)も畏く悲き事の極みと常に歎き思おす(中略)尊霊を迎え奉り其御積憤を和(なご)め奉り賜わむと思おして皇宮(すめみや)に最近(いやちか)き飛鳥井町に清(さや)けき新宮を造り設け立ち二位権大納言源朝臣通富(みちとみ)を差使(さしつかわし)て尊霊を迎え奉り賜う故此由を平(たいらけ)く安(やすらけ)く聞(きこし)おして速に多年の宸憂を散し御迎人と共に皇都に還坐(かえりまし)て天皇朝廷を常磐に堅盤(かきわ)に夜守日守に護(まもり)幸(さきわ)えて給い此頃皇軍に射向い奉る陸奥出羽の賊徒をば速に鎮定(しずめさだ)めて天下安穏に護助(まもりたすけ)賜えと恐みも申賜わくと申す。
  慶應四年八月十八日


 半月後には明治と改元される、まさに風雲急を告げる時であった。実に崇徳院の死から七百五年の後のことである。

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 また、先に述べた名のある大天狗達も、こうした怨霊と無関係ではない。例えば讃岐白峰の相模坊は崇徳院と関係が深い。謡曲「松山天狗」で相模坊と西行との仲立ちを務めるのが崇徳院の怨霊である。

  「抑(そもそ)もこれは、白峯に住んで年を経る、相模坊とはわが事なり。さても新院思はずも、この松山に崩御なる。常常参内申しつつ、御心を慰め申さんと、諸天狗を引き連れて、翼を竝べ数数に、この松山に飛び来たり、玉体を拝し奉り、逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し会稽を雪(すす)がせ申すべし

 また上田秋成『雨月物語』(安永五年(西暦1776年)刊)の「白峯」で西行法師の出会った崇徳院は、「相模」を配下に持つ讃岐の大天狗そのものであるように描かれている。後世の文学だが、その一部を以下に引く。

  「近来の世の乱は朕のなす事(わざ)なり。生きてありし日より魔道にこゝろざしをかたぶけて、平治の乱を発(おこ)さしめ、死して猶朝家に祟をなす。見よ/\やがて天が下に大乱を生ぜしめん」 
  「終(つい)に大魔王となりて、三百余数の巨魁(かみ)となる。朕が眷属のなすところ、人の福(さいわい)を転(うつ)して禍とし、世の治るを見ては乱を発(おこ)さしむ

 さらに、隠岐に流された後鳥羽院の怨霊を鎮める為に鎌倉鶴岡八幡宮内に建てられた新宮の背後には六本杉があり、その樹上には飯縄三郎の眷属が住み着いていたという伝説もある。

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 ただ、こうした怨霊としての天狗が優勢になってくると、それまで独立した存在であった山々の天狗の影が薄くなってくる。天狗の世界が、単なる現世が反転したネガに過ぎなくなってしまうという面が否めない。現世で高位にあった者が天狗界でも高位に収まるという形がそれである。
 最も、こうした天狗信仰を流布させた山伏達自身も、大天狗の配下の天狗達と同一視されてゆく。そして、一般における山伏姿の天狗のイメージを定着させていったと考えられている。この広く流布したイメージは、時代が下って怨霊色が薄れて行っても消えることはなかったようである。例えば室町時代の『御伽草子』の「天狗の内裏」の天狗は山伏的な性格は残しながらも、怨霊的要素を失い、むしろ鬼ヶ島の鬼といった雰囲気であり、他界にすむ妖怪として鬼と置き換え可能な状態であるとさえいえる。こうして、中世後期に怨霊思想を薄めた天狗は民間信仰へと浸透し、今日各地の伝説や昔話に残る天狗のイメージに近づいて行ったと考えられる。

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 一方、恨みを持った御霊達に加え、高慢な僧侶が天狗となると言う話はよく知られている。当然天狗の鼻が高いのは、その慢心を表すものという訳である。これら僧侶が化した天狗の存在は、仏教に敵対する天狗とも重なっている。密教の高僧達と対決した天狗の本体が僧であったという説話も多い。なお、これらの鼻高天狗に対し、顔が青く嘴を持つ天狗を烏天狗と言う。また犬の様な顔をした天狗を狗賓(ぐひん)と言う場合もある。別に、鼻高天狗を大天狗、烏天狗を小天狗と呼ぶこともある。

 こうした驕慢な法師が天狗となるという考え方は、鎌倉時代に広がったと思われる。例えば、『平家物語』には次のような一節がある。

  「持戒のひじり、もしくは智者などの我れに過ぎたる者あらじと慢心起したる故に、仏にもならず悪道にも落ちずしてかかる天狗という物に成るなり

 また室町末期から近世初期に成立したと考えられる幸若「未来記」にも同様な記述がある。

  「抑我等が異名を天狗といふいわれあり、むかしは人にてさふらひしが、仏法を能習ひ我より他に智者なしと大まんじんをおこすゆへ、仏にはならずして天狗道へおつるなり

 『平家物語』の異本である『源平盛衰記』には大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗に転生し、無知驕慢の僧は畜生道に堕ちると記されている。こうなると、高僧、名僧も皆天狗になってしまうが、実際各地の大天狗の前世は、あの名僧誰々である、というようなまことしやかな巷説が流布しているのも事実である。これには、江戸時代に儒学者が仏教を攻撃する材料として、僧侶が天狗となるという伝承を盛んに喧伝したことが影響している可能性もある。

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 古くは『今昔物語』や「是害坊絵巻」、『古事談』(源顕兼編、建暦二年〜建保三年(西暦1212〜1215年)頃成立)にもそうした話が収録されている。有名なのは文徳天皇の后であった染殿后(そめどののきさき)に関する伝説あろう。多少の相違はあるが、験力を持った行者が天狗となって染殿を悩ませたという説話である。この天狗は石山の行者であるとか、柿本天狗、あるいは愛宕太郎坊、紺青鬼など、様々な表現をされているが、元は法力を備えた高僧であったらしい。一般にその高僧とは紀僧正真済(しんぜい)のことであると伝えられている。

  「昔紀僧正真済、在生日、持我明呪、而今以邪執、故堕天狗道、着悩皇后
   (『古事談』「三、相応為染殿后退天狗事」)(※染殿に憑いた天狗を僧相応が降伏する話)

 真済は惟喬親王の真言系の護持僧であったのだが、対立する惟仁親王(後の清和天皇)の天台系の護持僧恵亮との呪術合戦に敗れ、惟喬親王は呪殺されてしまったという。この時真済は怒り狂い、魔縁となったと伝えられる。あるいは、清和天皇の母に当たる染殿を犯し、死して天狗となったとも言う。この話には、験力を持った僧侶が天狗と化すという認識と、さらに恨みを持って死んだ者が天狗となるという両方の認識が表れているといえよう。また、この伝承において、天台僧に対立した真言宗の僧が天狗となったという点から、この伝承成立の背後に天台宗の関係者の影が見え隠れする。
 なお、『今昔物語』の「染殿の后、天宮(てんぐ)の為に[女堯]乱(にょうらん)せられたる語」(巻二十本朝部付仏法、第七)は、やはり葛城山の聖人が染殿の美しさに迷い、死して異形のモノとなる説話である。本文中でそのモノは「鬼」と称されているが、表題にも有る通り、これは天狗としても認識されていたと考えられる。

 この他にも中世の文献には験者が死後に天狗となり、人々を悩ませたので祠を造って鎮めたという
記事が数多く見られる。
 例えば、日吉神社内など比叡山の影響下にある「護因社」に祀られている護因の像について、「護因社。僧形。觜有リ。樹下僧夏堂衆、ス子聖(すねひじり)ナリ。行力巨多ナリ」(『秘密記』)と伝えられている。護因は通力を備えた僧侶で、「没後ニ人ヲ煩ハス事間断無」(『耀天記』)かったため、死後に神と祀られたとされるが、その姿はまさに天狗に他ならない。後に述べる僧侶が化した天狗もそうだが、通力を持つと信じられた山伏や密教行者などの山岳修行者の持っていた強烈な畏怖のイメージがこうした天狗の伝承に連なっていると考えられる。
 また、異常な力を持つ者についての例であるが、百済の官人日羅(にちら)についても天狗との関わりが伝えられている。日羅は敏達天皇十二年(西暦563年)七月に任那復興に関連して百済から来朝、様々な献策をするが、共に来朝した百済側の使者らによって暗殺される。『日本書紀』によれば、初め暗殺を試みたとき、日羅の身に火炎の如き光があり、恐れて果たせず、十二月晦日にその光が失われるのを待って暗殺したという。ところが日羅は一度生き返り、暗殺者などについて告げたという。日羅は、この他にも聖徳太子と関連づけた奇瑞が伝えられる(『聖徳太子伝暦』)など、異常な力を持っていたとされる人物である。そしてこの日羅が、死後に天狗の首領格である愛宕山太郎坊となったとする伝承があるのである。愛宕の太郎坊の本体とされる存在は数多いが、「是害坊絵巻」の中にも、是害坊を受け入れる日本の愛宕山の大天狗の名前を「日羅坊」としているものがある。最も、この伝承がいつ頃から語られ出したのかはよく分からない。おそらく中世以降、愛宕山の勝軍地蔵の信仰の拡大などと併せて広まったものであろう。

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 ここでこれらの天狗について、歴史的に、即ち時系列とその変遷に注目して見た場合についても述べておきたい。歴史的に見てみると、こうした法師の化す天狗の方がむしろ古く、中世になって登場した国家を揺るがすような御霊系の天狗に先行していると考えられている。また、天狗が山伏姿として描かれるのは、山伏の特異な所作風体と、山岳修行によって験力を得たと増長している様子を他の宗教者が「増長慢に堕ちた天狗だ」と評した事から来ているという説もある。

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 ところで、天狗には女性もいたという。先に述べた天逆毎姫も女性だったが、天狗には男女ともに有るという認識があったらしい。例えば『源平盛衰記』の智巻第八「法皇三井灌頂の事」には天狗についてのまとまった記事があるが、そこには次のように記されている。

  「当知(まさにしるべし)魔王は一切衆生の第六の意識かえりて魔王となる。故に魔形も又一切衆生の形に似たり。されば尼法師の驕慢は、天狗に成たる形も尼天狗法師天狗にて侍(はべる)也。頬(つら)は天狗に似たれども、頭は尼法師也。左右の手に羽は生たれ共、身には衣に似たる物を著(き)て、肩には袈裟に似たる物を懸たり。男驕慢は天狗と成りぬれば、頬こそ天狗に似たれ共、頭には烏帽子冠を著たり。二の手には羽生たれ共、身には水干袴、直垂、狩衣なんどに似たる物を著たり。女の驕慢は天狗と成ぬれば、頭にかづら懸て紅粉白物の様なるものを頬につけたり。大眉作てかね黒なる者もあり。紅の袴に薄衣かづきて大虚(おおぞら)を飛もあり

 後白河法皇はその権力志向や狡猾な政治手腕から、天下の大天狗と称された。源平争乱期を扱う書物の表現にある天狗には、こうした当時の権力者に対する皮肉が込められていたことも忘れてはならない。

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※会話調の簡略版「天狗覚書」(挿絵付)


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